日本禅宗史への扉

【水墨画】

水墨画は、墨の濃淡によって簡素な色と線で表現する画法である。それは、外面的な形似を否定し、対象の本質を内面的にとらえたものである。また水墨画には、下書きがなく、精神を集中して構図を決め、気を満たして一気に書き上げる。この姿勢は、禅の教義と相通ずるものがあり、日本の禅林でおおいに受け入れられた。はじめのうちは観賞用であったが、次第に余技として描く者が現れるようになり、やがて余技の域を超え、絵画を専門とする画僧を生み出していった。吉山明兆〈きちざんみんちょう〉(1352〜1431)は、寺院用の着色仏画のほか、水墨画の技法にすぐれた多くの作品を残した。東福寺の殿司〈でんす〉(仏殿の一切を司る役職)を務めていたことから、兆殿司〈ちょうでんす〉の名で知られている。

 

明兆のあとには、幕府の御用絵師となった相国寺の大巧如拙〈だいこうじょせつ〉(生没年不詳)が出た。以後、相国寺の画僧の活躍が目立ち、天章周文〈てんしょうしゅうぶん〉(生没年不詳)やその門弟の雪舟等楊〈せっしゅうとうよう〉(1420〜1506)が出た。