日本禅宗史への扉

【曹洞宗】

●永平寺三代相論と地方展開

道元が伝えた曹洞宗は、林下として地方武士や民衆を支持基盤とした。地方展開の先駆は寒厳義尹〈かんがんぎいん〉で、いち早く九州に渡り、熊本の大慈寺を開いて、寒厳派(法皇派)を形成した。

道元寂後の永平寺〈えいへいじ〉では、徹通義介〈てっつうぎかい〉と義演〈ぎえん〉の間で争いが起こった。表面上は永平寺三世の座をめぐる争いだが、実質は地方展開を目指す徹通派と、道元の純粋禅を保持する義演派の教団経営をめぐる論議だった。

相論の末、徹通派は永平寺を出て加賀大乗寺〈かがだいじょうじ〉に移った。徹通の法嗣螢山紹瑾〈けいざんじょうきん〉は、能登に永光寺・總持寺を開き、その拠点とした。螢山の流れは、積極的に加持祈祷などの要素を取り入れ、また民衆の葬送儀礼への関与や、架橋等の社会事業を行うことにより、民衆の教化に努め、飛躍的に全国的発展を遂げていった。

 

●両祖と両大本山

永平寺では越前宝慶寺を拠点とした寂円〈じゃくえん〉派を中心に、總持寺では螢山の法嗣峨山韶碩〈がざんじょうせき〉の峨山派を中心に、教団の維持発展に乗り出していく。

戦国期に、永平寺は「本朝曹洞第一道場」の勅額を、また總持寺も「曹洞出世道場」の資格を朝廷より確保していった。曹洞宗では、道元・螢山を「両祖」とし、永平寺・總持寺を「両大本山」として並び称している。

 

●五山派の曹洞宗

曹洞宗で唯一五山派に属した特殊な一派があった。宏智派〈わんしは〉といい、延慶2(1309)年、宏智正覚〈わんししょうがく〉の五世の法孫東明慧日〈とうみょうえにち〉によって伝えられた。

当初は鎌倉北条氏一門に厚遇され、室町期には斯波氏や朝倉氏、さらに二条家や飛鳥井家など公武の外護を受けた。特に越前(福井県)の戦国大名朝倉氏との関係は深く、既に衰退していた五山派をしのぐ隆盛を誇ったが、朝倉氏が織田信長に滅ぼされると急激に衰え、その法系は断絶した。