正法眼蔵(誰でもわかるやさしい解説)

 日本曹洞宗の根本宗典。道元の代表的著述。九十五巻。寛喜3年(1231)8月撰述の「?道話」から建長5年(1253)の「八大人覚」に至る二十三年間の説示を集めた和文の法語集。和文の『正法眼蔵』には、大別して、七十五巻本・十二巻本・六十巻本・九十五巻本の四系統がある。ここでは、道元が『正法眼蔵』を示し、説き始める時期の過程について概述してみたい。

 

 1227(嘉禄3)年、28歳の秋、如浄より法を受けて出帆し、帰国した。京都建仁寺に入り、この年、早くも『普勧坐禅儀』〈ふかんざぜんぎ〉を撰述している。坐禅を広く勧めるものであった。しかし1230(寛喜2)年の31歳の頃、建仁寺を出て山城深草の極楽寺別院・安養院に閑居した。建仁寺における房舎が破棄されたからである。教禅兼修〈きょうぜんけんしゅう〉だからこそ比叡山から存在を許されていた建仁寺で純粋禅を説いたため、比叡山僧の迫害にあったものと考えられる。この安養院で翌年8月15日、「弁道話」を撰述している。道元禅の基本方針すべてがわかるものである。

 

 道元は1233(天福元)年頃、興聖寺を深草の極楽寺跡に開いている。そしてこの年の夏に『正法眼蔵』(魔訶般若波羅密〈まかはんにゃはらみつ〉の巻)を示し、以後同書の示衆・撰述を進めていく。1234(文暦元)年の冬、大日房能忍〈だいにちぼうのうにん〉門下の孤雲懐弉〈こうんえじょう〉(のちの永平寺二世)が参じてきた。1236(嘉禎2)年10月に僧堂を開くと、1241(仁治2)年春には越前波著寺〈はじゃくじ〉の懐鑑〈えかん〉が門下の徹通義介〈てつつうぎかい〉(のちの永平寺三世)・義演〈ぎえん〉(同四世)・義準〈ぎじゅん〉・懐義尼〈えぎに〉・義運らとともに入ってきた。大日房門下の集団での参入であった。翌年12月には六波羅〈ろくはら〉にいた波多野義重のもとで、その翌年4月には六波羅密寺で『正法眼蔵』を説いている。