永平寺史料全書

 戦乱に巻き込まれた永平寺は、現在の福井市内の鎮徳寺に場所を移転させることが知られる。本巻掲載の永平総目録は、光紹智堂以前、すなわち祚棟・祚玖の時点における状況を示しており、今回、この永平寺の混乱時期においても、祚棟や祚玖が公案の体系化を進めていた可能性が大きいことが、明らかになった(本巻No.108)。当地の戦乱期においては、朝倉氏の滅亡や織田信長の 一向一揆の焼き討ちなどが知られるが、これらの動きを理解する上でも本巻の内容は、多くの情報を提供している。

 

 第六に、禅籍編未収録の版本を新たな史料調査の過程で発見したので、今回収録することにした。とくに、永平寺 二十五世北岸良頓の手沢本を新たに掲載することができた。【山谷黄先生大全詩註】(本巻No.163)は、曹洞宗に限らず、五山版研究の進展にも寄与できるものであり、今回紹介できたことは、一定の成果であると考える。また、『荘子斎口義」(本巻No.165)は道正庵より寄進されたものと思われる。さらに『帰元直指集』 (本巻No.161)・「性理大全』(本巻No.164)も紹介することができた。ただ、これら版本については、紙幅の関係と本巻の性格からも部分的な紹介とならざるをえなかった。しかしながら、今後、これらの漢籍をあつかった様々な研究が生まれてくるに相違ない。本巻が 禅籍研究の基礎史料集としても、大いに活用されることをのぞむものである。

 

 第七に、永平寺直結のものではないが、冊子史料の中に含まれた近世初頭の文書写の中にあるものを掲載した(後述)。そこから、永平寺を支えた曹洞宗寺院(禅宗)にとって山伏勢力との葬祭をめぐる争論が主要課題であったことが鮮明となった (本巻No.98・99・106・107)。

 

 第八では、現状で把握が可能な金石文の掲載も行った。主に永平寺境内の石造物を掲載し、解説を加えた。これにより、これまでの永平寺の歴史を考える上で、新たな知見を加えることができた。とくに、いわゆる文献史料にはあらわれない永平寺の情報が加わり、しかも、編年順に並べたことで他の文献史料の中に明確に位置づけられたことの意味は大きいといえよう。

 

 また、 従来から幾度か紹介がなされているが、磨崖仏(本巻No.71)の掲載を行った。磨崖仏の内容は、永正期のもので、当時の永平寺の場所の性格を考える上でも、興味深いものがある。

 

 さらに、福井藩主であった越前松平氏が永平寺に関わっていたことを示す貴重な石造物を紹介できた(本巻No.152・153)。これは、永平寺境内にある 「松平公廟所」の調査をもとにしたものである。先に述べたように、永平寺は出世道場としての性格をもってきたが、人々を弔う、慰霊の場としての性格も一面ではもっていた。この他、現在の寂光苑に存立する石造物についても取り上げた(本巻No.138・143・154・167)。

 

 これらの石造物のなかには延宝四年(一六七六)から天和元年(一六八一)頃の成立とされる永平寺寺境絵図(ロ絵書照)において確認できるものもあり、永平寺の景観を捉える上でも注目されよう。口絵の絵図を参照されつつ、これら石造物の内容にも注目していただきたい。永平寺にかかわった多くの人々の様子がうかがえる史資料である。

 

 第九に、永平寺には文書を書写し、収録した写本(冊子史科と称する)が所蔵されている。本巻では、この冊子史料に収録された史科の掲載にあたっては、史科を随時、抽出し、網年頂に配置した。以下、冊子史料の基本的な性格について、ここで整理しておく。本巻掲載の冊子史料は、以下の通りである。

 

(1)『惣持寺末派制度者勿論宗制仕来之次第手続書書上控』 (以下、『書上控』と略称する)は、慶応四年(一八六八)四月に総持寺で作成されたものの写である。主に、中世以来、慶応期までの永平寺・惣持寺、つまり両本山関連の文書である。両本山のあり方が、総持寺においてどのように認識されていたのかをうかがうことができると共に、明治期以降の曹洞宗の展開を考える上での前提とすべき重要な史料である。

 

(2)『上』は、明治四年(一八七一)四月に山形県山形市の光禅寺から永平寺に提出されたもので、『永平寺諸法慶』の伝達の流れがみれるなど(本巻No.119)、近世初期の曹洞宗寺院を理解する上で貴重な史料が掲載されている。

 

(3)『御代々様御条目幵御掟』 (以下、『代々』と略称する)は、幕府から出された法度類などを集めたものである。

その下限は明和五年(一七六八)なので。それ以降に編集作成されたものと考えられる。主に、関三ヶ寺から各地の曹洞宗寺院に出された触などが確認できるものである。 江戸時代の曹洞宗の歴史を考える上での基礎的な史科として位置づけられる。

 

(4)『永平寺壁書之写」 (以下、「壁書之写』と略称する)は、嘉永三年(一八五〇)十二月、敦賀永建寺が作成した写である。主に、永平寺から永建寺宛の寛永十年(一六三四)より万治三年(一六六〇)までの文書が書き留められている。これら文書の原本は永建寺に所蔵されており、両寺の関係を知る上で興味深いものがある(本巻No.135・141・155・166)。越前における曹洞宗寺院のあり方を捉える上でも注目される史料である。

 

(5)『記録写下書』は、『代々』と共に、江戸時代後半の関三ヶ寺などからの法度類を書き留めたものである。このうち、寛永期の祭道公事に関する史料が書き留められており、今回、それを収録した(本巻No.146)。

 

 これらの冊子史料は、写として書き留めたものであり、編纂された二次史料である。原本の文書ではないが、永平寺内に蓄積された情報として、永平寺の歴史を考える上では重要なものである。山外の史資料を集める作業は今回の編集方針ではなかったが、山内の二次史料を生かすことで永平寺の近世初期の状況をある程度復元することができたと考える。

 

 とくに、本山という立場から、各地の状況を書き留めていたことが判明すると共に、永平寺が各地の惰報をえる立場にあったことも示している。そして、出世道場としての永平寺は、江戸幕府が開かれると、関東(江戸)との関係を強めつつ、その立場を整備していくことになる。これら冊子史科には、関三ヶ寺に関する史料が豊富に書き留められており、関三ヶ寺と永平寺のおり方を中心にした幕府の曹洞宗に対する宗教政策を考える上での基本史料の一つとしても、本巻は位置づけられよう。なお、 写真の掲載方法についても、先述した冊子史料という性格上、個々に該当分の写真をかかげることをせず、冊子史科の作成意図などを検証する上でも、あえて一括の掲載とした。

 

 以上、累々述べてきたように、本巻編纂により、永平寺の歴史、宗門の歴史の解明に資する点も多々提示することができたかと思量する。しかし、本巻刊行には、これまでの禅籍編纂以上に長い期間を要することになってしまった。しかし、それにも関わらず、編纂事業に必要な環境を整え、理解を示し、尽力して下さった御本山当局に感謝申し上げたい。

 

 とくに、福山諦法不老閣猊下、大田大穣監院老師をはじめとする大本山永平寺の関係諸師、顧問会の諸老師、傘松会の高山幸典師、本山事務局の方々、そして膨大な禅籍や古文書の解読に努め、他の禅籍・史資料との比較研究を行い、詳細な注や的確な解説を付して下さり、貴重な原稿を完成して下さった、熊谷忠興、吉田道興・菅原昭英・飯塚大展・佐藤秀孝・岩永正晴・遠藤廣昭・中野達哉・皆川義孝の諸先生に御礼申し上げる次第である。また、編纂事務局の諸兄姉の勢力に感謝申し上げたい。さらに、複雑な組み版を作成して下さった吉野誠氏を始めとしたヨシダ印刷株式会社の皆さんにも深謝申し上げたい。

 

 『永平寺史科全書』の編纂事業は、極めて地道な作業であり、一歩一歩の前進以外にない。しかし、それにより道元禅師をはじめとした歴代住職やそれを支えた関係諸大徳それぞれの特色ある行履など、永平寺が時代を追って課題に直面し克服してきた来し方が明らかとなり、多くを学ぶ上で、重要な役割を果たすものと信じるものである。永平寺御本山、宗門の皆様には、今まで以上のご理解・ご法愛を賜りたい。

 

平成二十四年十月二十日

駒澤大学文学部教授  永平寺史料全書編纂委員会委員長 廣瀬良弘

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