永平寺史料全書

「永平寺史料全書」文書編 第1巻「発刊の辞」

 『永平寺史料全書』文書編第一巻は、高祖道元禅師七百五十回大遠忌の文化事業の一環として閉始され、 現在も継承され出版されている『永平寺史科全書』の一部をなすもので、永平寺における初めての本格的な『史料集』である。本巻収録の歴史資料は、すべて大本山永平寺に所蔵されてきたものである。すでに、これまでに『永平寺史料全書』禅籍編として四冊が刊行されているが、本巻はそれに続く文書編である。本巻の最大の特徴は、永平寺に保存されて きた古文書(以下、文書)を中心として、禅籍・抄物・切紙・絵画・墓石等も含めた史資料を編年順に掲載したところにある。これは現段階での永平寺所蔵の史資料を、歴史的視野から網羅的に理解することを目的としたためである。これらの史資料については、禅籍編を含め、これまでも様々な形で紹介がなされてきたものもあるが、編年順に掲載して新たな意味づけを試み、さらに最新の研究成果を盛り込むことにつとめた。また掲載史料は、道元禅師に関する史料を上限とし、下限は紙幅の関係から慶安五年(一六五二)とした。ただし、禅籍編では慶安五年とした高祖四百回忌祭文などは、光紹智堂の代に掲載を見送った。

 

 これまで永平寺の歴史や文化については、二祖国師懐奨禅師の七百回大遠忌を記念して、昭和五十七年(一九八二) に刊行された『永平寺史』上・下巻が画期をなすものであったが、『永平寺史料全集』は、この『永平寺史』の記述を史料的に裏付ける役割も担って企画されたという一面もある。本巻はその意味からすると『永平寺史料全書』の中心をなす巻ということにもなる。『永平寺史』刊行から三十年の歳月が経過したが、ここに寺史と史資料が一体となったといえよう。これまで『永平寺史』上・下巻、抄物 、切紙まで掲載した 『永平寺史料全書』禅籍編全四巻の刊行に次ぐ一大画期である。その上で本巻は、信仰・文化・経済・政治など永平寺をとりまくさまざまな歴史環境の中で、永平寺の歴史を再確認することをめざした。それは、永平寺のみならず曹洞宗門の歴史を考える上でも、日本の仏教史を再点検する上でも貴重な試みとして評価されるものと自負しているところである。また当然のことながら、編年 形式をとったことにより、永平寺の年表の役割も担っており、一般の歴史的な視点からも、多くの史資料に接近することができるようにした。

 

 そして、本巻目次を参照いただければわかるように、本巻は史料総数一七五点からなる。なお、すでに禅籍編に掲載されている写真等にいては、写真掲載分を重要度に応じて必要最少限度にとどめ、歴史的視点からの解説の充実・ 補訂につとめている。但し、それでも弾籍編と重複する史料や「写」史料等が掲載されている場合は、何らかの新たな理由があることを意味しており、その旨を解説で触れることにした。とくに、疑問の持たれる史料については、その真偽にとどまらず、史料成立の背景を出来るだけ考証し、そこから特有の意味を見出すことを試みた。本巻の特色ある編集方針についてご理解をたまわりたい。

 

 また、全ての史料掲載に先だって綱文をかかげ、その史料の概況が一目でわかるようにつとめ、読み下し文もいれた。ただし綱文でその史料の全体像が要約出来るわけではない。史料の語る様々な局面は、その史料の信憑性や成立過程をふくめて解説するようにつとめた。また、永平寺の住職に関する史料であることが明白でありながら、成立年次の未詳のものについては、原則として、その住職の寂年の年次に一括して掲載することにし、その活動が、より鮮明になるように試みた。

 

 さらに、編年形式を基礎とするにあたり、写本(以下、冊子史料とする)から文書を抽出して掲載することを行った。冊子史科については、史料の原形態が確認できるようにつとめ、巻末に全体の写真を一括掲載している。なお、紙幅の関係ですべての写真を掲載していないものもある。冊子史科の概況等についてはあらためて後述する。

 

 つぎにいくつか本巻掲載の史料及び新たな知見について紹介しておきたい。

 まず、第一に、これまで疑問視されてきた道元禅師の入宋にかかわる史料に関しては、花押影の検討などを通して、事実を伝えるものとしてみることができることを確認した(本巻No.4・5)。

 

 第二に、栄西との繋がりについて、新たな提起を試みた。注目すべきは、義演の役剤であり、「栄西僧正記文写」(本巻No.37)の解読を通じて、義演が栄西と瑩山禅師とのつながりを仲立ちしていたことを明らかにした。さらに義演段階においては『正法眼蔵』を重じながらも栄西を重視する動きがあった可能性を指摘しておきたい。栄西研究とのあり方含め、禅宗史研究において興味がもたれる内容であろう。

 

 第三に、永平寺に伝来する嘉暦の梵鐘についても、新たな解説を加えることができた(本巻No.40)。この梵鐘は、すでに義雲の時代に鋳造されたことが知られていたが、その背景などについて詳述することができた。道元禅師の時代 の鐘声と親鸞の話は、義雲の時代にまで事実として伝えられていたことや、梵鐘鋳造の檀越は波多野通貞であり、巨宏知蔵と韶林雅那の尽力があったこと、また、当時の波多野通貞は後醍醐天皇や東寺から志比圧の本年貢の直納の要 求を受けながらも、志比圧の本年貢を自らのもとに留めていたことなどが明らかとなった。地頭読多野氏の外護を受 けて発展した新仏教系永平寺の様子が明らかになったといえる。そして、なによりも注目すべきは、すでに通貞の時代には、志比圧の地頭は波多野氏であったことを再確認できたことである。当然のことながら、道元禅師の時代の志比圧の地頭が波多野義重であったことがより明確となったのである。

 

 第四に、永平寺に伝来する頂相について、その特徴を示すことができた。特に江戸時代以前に永平寺で影響力をもっていた寂円派の頂相を改めて分析した結果、その頂相が京都の五山派の系譜を引くことが認められた(本巻No.50・52・53・56・59・61・80)。この点は、当時の永平寺寂円派の禅僧のあり方を捉えていく上でも興味がもたれよう。当時の水平寺を理解する上では、京都との繋がりからみる必要を示したものであり、今後、京都五山系の禅宗寺院とのあり方ともあわせて追求して いく必要があろう。

 

 第五に、戦国時代における永平寺についても、いくつかの新たな見解を加えることができた。周知のこととして、永平寺は戦国大名朝倉氏との関係が認められるが、十六世紀初頭において、出世道場としての立場が整備されていったことが明確にできた。この点は、中世後半以降の永平寺を捉える上でも重要なことであり、曹洞宗の歴史を考える上で注目されよう。すなわち、中世後半の時期に、文字通りの曹洞宗の大本山として、総持寺とともにその立場を確立していったのである。なお、江戸時代前半に多くの出世者を増やそうとする動きも認められるが、このことは永平寺が江戸時代以前に出世道場としての位置を確立していたことを前提とした動向であり、注目すべき点である。また、他国の寺院からの出世者があった永平寺と領国支配の徹底を指向する戦国大名朝倉氏との関係も探ることにも意を注いだ(本巻No.70など)。

 

 また寺領に関しても永平寺は、朝倉氏に対し、他の寺社と同じように当知行(実際に把握している土地)の寺領目録を提出し、虚偽の記載を行った場合の土地は没収されても構わない旨の誓約の文言を書き、それと引き替えに朝倉氏 の所領安堵(保証)を受けて、その統制下に入ったことや、それでもしばらく後には関所地(永平寺から離れていた土地)の安堵を受け、一定の保護を受けていたことなども明らかとなった(本巻No.63・81)。

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