禅宗の日本への伝播とその日本的展開
於 北京大学 歴史学部 2007年9月10日
駒澤大学文学部歴史学科教授 廣瀬良弘
【挨拶】
北京大学の皆さんこんにちは。悠久の歴史を持つ中国の第一の最高学府北京大学で学問研究をされる皆さんの前で、講義をさせて頂くことは、誠に光栄なことであります。この北京大学歴史学系大学院において栄誉ある場をお作り願いました、貴学歴史学系主任 牛大勇先生、副主任 王春梅先生、教授の王新生先生に御礼申上げます。また、新学期、早々に、貴重な本講座の時間をわざわざわ与えて下さいました宋成有先生と明日の王新生先生に深く感謝申上げます。
駒澤大学は東京の世田谷区駒沢にあります。33年前の東京オリンピックの時に作られましたオリンピック公園が周囲にありまして、とてもよい環境の中にあります。大学自体のキャンパスは貴学のような広大なものではなく、狭いのですが、オリンピックのおかげです。
さて、私、廣瀬良弘と久保田昌希教授は、文学部歴史学科の教授職にあります。私は両大学間で2005年12月20日に学術交流に関する協定を結びました際の教務部長でした。久保田教授は、当時、歴史学科の主任でした。そのようなことから、今日のような機会を与えていただいたものと存じます。
駒澤大学は現在、7学部、16000人の学生を擁する大学ですが、当初は曹洞禅宗の僧侶養成の学寮としてスタートいたしました。徳川家康が江戸城に入って間もない頃、城の拡張のために移転した吉祥寺の中に、1592年(文禄元年)に立てられました学寮(のちの栴檀林)に始まります。その後、吉祥寺が駒込というところに移転するとともに移り、1882年(明治15)に麻布に独立し(六本木ヒルズあたり)、1913年(大正2)に駒沢の地に移転して、今日に至ります。
このように、本学は曹洞宗と深い関係にあるのですが、その曹洞宗は、道元禅師という方が、1223年に浙江省寧波から天童山に登り、如浄禅師に禅を学び、帰国して起こした宗派です。もちろん、日本全体が文化・制度等あらゆる面で中国の恩恵を蒙っている訳ですが、駒澤大学は、それに加えて、特別の関係がありますし、特別の思いがあります。このように、関係の深い、中国のしかも、第一の北京大学との学術交流の実現は夢のようであり、有り難いことです。
貴学と本学の間で協議を重ね、2005年12月20日に両大学間の学術交流に関する協定を結び、とくに、北京大学歴史学部と駒澤大学は学術交流に関する協定書の覚書を取り交わしました。実際の交流にいたるまでに、2006年3月にも、牛大勇主任・王春梅先生・王新生先生には、来日願い、協定の実行のためのご努力をしていただきました。この結果、2006年10月から宋成有先生に来学願い、東アジア近現代史に関する講演会でご講演願いました。また、地方史研究協議会静岡大会では史料保存に関して発言願っています。また、2007年5月から辛徳勇先生に来学願いまして、ご研究願い、駒沢史学会では中国古代における印刷に関する研究発表をして頂きました。両先生には交流の第一歩を大きく踏み出していただきましたこと、厚く御礼申上げます。協定を結ぶ協議を行っている当時は日中関係は必ずしも良好という状況にはありませんでした。そのような厳しい状況の中で、学問研究に国境無し、の考えのもとに、学術交流協定の協議を進めていただいた北京大学の先生方に深く感謝申上げます。
はじめに【鎌倉仏教について】
禅宗が日本に伝播し、日本の歴史に大きな影響を与えることになるのは12世紀末頃からである。この時代は、内乱で平氏に勝利した源頼朝が関東の鎌倉に幕府を開き、武士による始めての政権を樹立した時代である。文化の面では、これまでの京都を中心とする貴族の伝統文化を受け継ぎながら、武士や庶民の間で起こってきた新しい文化が着目され、やがては、洗練されていくことになる。また、中国と日本の間を往復する僧侶や商人等により、中国の宋・元の高度な文化が移入されるようになっていった。この、僧侶の中には渡来・渡海の禅僧たちも多く存在した。
仏教の伝来は、正式には、538年に百済の聖明王により仏像・経典などが送られて来たことに始まるとされるが、以来、9世紀初期に最澄と空海が入唐し、天台宗・真言宗を伝え、密教仏教が盛んとなっていった。奈良・京都の大寺では、鎮護国家が祈られた。このような中で、起こってきたのが鎌倉仏教であった。
平安時代の半ば頃から仏教の諸信仰が機能分化を見せるようになってくる。天台宗のなかにも、念仏信仰と法華信仰が見られるようになってくる。往生思想に連なる念仏信仰に対して、法華信仰は現世の利益を願うものであった。念仏信仰は、空也が民間に広めたものであり、慶滋保胤の『日本往生極楽記』には平安貴族の念仏信仰を見ることができる。 「朝題目に夕念仏」ということが言われ、両方の行を行うことが一般化する中で、一方では、鎌倉期になるとその分化が顕著になってくる。また、奈良・平安の時代からの山林修行者や聖といった民間の宗教者のなかには、念仏者が多く存在したが、その一方で禅的修行や看病・持戒の能力を発揮し、後の禅僧に連なるような要素を持った人々が存在し、平安期の大寺院の中にも、それらの能力を持った十禅師・禅衆と呼ばれる人々がいた。つまり、鎌倉期になるとそれらが、一方は念仏へ、一方は禅宗へ、また一方は、法華信仰の方向へと分化して、それぞれが革新的動向を示していくことになる。
浄土系では法然(浄土宗、1133~1212)が念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生できると説き、門弟の親鸞(1173〜1262、浄土真宗)は悪人こそ真っ先に救われる対象であるという「悪人正機説」を打ち出すまでにいたる。一遍(1239〜89、時宗)は踊念仏・遊行により念仏を広めた。日蓮(1222〜1282、日蓮宗)は、経典の中で、法華経を最高のものとして選択し、題目「南無妙法蓮華経」を唱えさえすれば救われるとし、法華経の信仰に基づく仏国土の実現を目指し、国家を論じたので、迫害を受けた。
禅宗では、栄西(1141−1215、臨済宗)が、2度の入宋から臨済宗の禅を伝えたが、密教を修する兼修禅であった。道元(1200〜1253、曹洞宗)は入宋し、只管打坐・修証一等の純粋禅を唱えた。家永三郎氏はこれら新仏教の特色を選択・専修・易行とした。
鎌倉新仏教の新しい運動に刺激を受けて旧仏教系の中にも改革を進めるものが出てくる。法相宗の解脱や華厳宗の明恵は戒律の厳守、釈迦への回帰を唱え、改革を図り、律宗の叡尊・弟子の忍性は奈良西大寺と鎌倉極楽寺や関東で活動し、厳しく戒律を守りながら、貧民や難病(ハンセン氏病)などへの慈善救済活動を展開した。
以上は、鎌倉新仏教の動向を中心にした見解であり、思想的変革に着目した見解である。これに対して、中世仏教の主流は旧仏教(顕密仏教)であるという見解がある。大寺院は広大な荘園を持ち、領民を支配し、武力を持ち、政治的にも力を持ったとし、仏法王法相依論を古代的な論理と捉えるのではなく、荘園制支配の成熟と寺院の封建領主化を背景として成立してきた「中世的」な理念とみる、黒田俊雄氏を始めとする見解である。黒田氏の他に、平雅行・佐藤弘夫氏もこの視点から考察を出発させている。
禅宗をこの鎌倉仏教論の中に、どのように位置づけるかは、私は、中世後期の研究をもう少し進めてからのちの課題としている。ただ、近世において、幕藩体制は寺院に寺請をさせて民衆支配の末端を担わせた、この結果、寺院は、その制度により、経済的にも安定し、全体的に堕落したという見方がある。しかし、幕藩からの要請があったとしても、そう簡単に民衆把握が可能になるのであろうか。この視点から、中世の仏教、中世の禅宗の広範な展開について考察を試みることも課題の一つとしている。
I 、【禅宗の日本への伝播】
渡海僧の数を見ると@入唐僧(300年間)149人、A南宋時代入宋(1167〜1279)109人、B入元僧(1280〜1368)222人で入宋・入元僧の密度が濃い(木宮泰彦)。平安から鎌倉期の渡海僧の目的は@,初期(重源や栄西)は仏蹟巡礼ため、A律宗を伝えるため(俊仍・月翁智鏡)、B求法のため(道元)であるとする考え方があるが、一方では、A鎌倉前半期は能動的で求法のための渡海であり、道元などがいる。しかし、B鎌倉後半期は,受動的となり、貴族文化摂取(漢詩文の古林清茂〈金剛幢〉に参学)のための渡海となったとする見方もある(玉村竹二)。また、この後半期は一流の禅僧が来日した。
中国禅宗界では、宋代以降は臨済宗が主流、なかでも南宋時代は破庵派、宋末以降は松源派であった。日本でも、鎌倉中期以降は、破庵派の影響を受け、また、楊岐派の無準に参学するものも多数であり、この派の渡来僧も多い。鎌倉末期以降は松源派の影響を受け、渡来僧もこの派が多くなる。ただし、破庵派の中峰明本(念仏禅・隠遁的)への参学者は多かった(玉村)。
つぎに、日本の禅宗界を見ると、兼修禅から純粋禅への動きが見られるが、その前に、中国からの本格的な伝播以前の日本の状況について見ておきたい。中国からの禅の伝来は飛鳥時代以来、断続的に行われてきた。また、奈良・平安期から民間の宗教者のなかには、念仏者ばかりでなく、修行や看病などの能力の面で、のちの禅僧に連なるような人びとが存在した。また、平安期の大寺院のなかにも十禅師や禅衆と称される人々がいた。このような背景のなかに能忍や栄西の活動がはじまる。
能忍は大日房という房号を持つ天台宗の僧侶であったと思われるが、禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(吹田市)に三宝寺を建立して禅の布教に努めていた。しかし、無師を批判されたため、文治五年(一一八九)弟子を入宋させ阿育王山の拙庵徳光に書簡を呈し、拙庵から門弟であることを許された。使僧は拙庵自賛の頂や達磨像などを託され、さらに禅宗の初祖である達磨から六祖慧能に至る六人の舎利(骨)をうけて帰国した。
能忍は建久五年(一一九四)には栄西とともに達磨宗の布教活動禁止の宣旨をうけている。これは天台宗の僧徒が朝廷に奏聞したことによるものであった。
能忍の門弟たちは二つの方向に分れていく。一つは東山から多武峰、越前波著寺へと拠点を移しながら、最後に宋から曹洞宗を伝えた道元のもとに投じた一派であり、ほかは摂津水田の三宝寺を拠点にして、拙庵から贈られた舎利を守っていった一派である。後者のなかには「蓮阿弥陀仏観真」と称する念仏系の人物も存在したことが知られる。それは念仏や禅を行ずる中から一方は禅へ、一方は念仏へと向かう者がいたことを物語っている。
能忍は天台宗の僧侶であったと思われるが、禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(吹田市)に三宝寺を建立して禅の布教に努めていた。しかし、無師を批判されたため、文治五年(一一八九)弟子を入宋させ阿育王山の拙庵徳光に書簡を呈し、拙庵から門弟であることを許された。使僧は拙庵自賛の頂や達磨像と、禅宗の初祖である達磨から六祖慧能に至る六人の舎利(骨)をうけて帰国した。能忍は建久五年(一一九四)には栄西とともに達磨宗の布教活動禁止の宣旨をうけている。これは天台宗の僧徒が朝廷に奏聞したことによるものであった。能忍の門弟たちは二つの方向に分れていく。一つは越前波著寺へと拠点を移しながら、最後に宋から曹洞宗を伝えた道元のもとに投じた一派であり、ほかは摂津水田の三宝寺を拠点にして、拙庵から贈られた舎利を守っていった一派である。
栄西は2度目の入宋で臨済宗黄竜派の禅を伝えると、2代将軍源頼家の援助を得て京都に建仁寺を建てるが、真言・止観・禅を併修する兼修禅であった。なお、栄西は天童山の千仏閣に修造のための用材を送っている。
円爾も径山無準の法を受けて帰国すると、九条道家の保護を受け、京都に東福寺を開くが、儒・仏・道の三教一致の教義と禅を融合させるという教禅兼修的なものであった。この円爾も炎上した徑山の復興のために富商謝国明の助力を得て、用材を送っている。
蘭渓道隆は、1246年渡来すると、執権の北条時頼の保護を受け、建長寺を建立し、宋朝風の純粋禅を唱えた。のちに京都の建仁寺にも住している。純粋禅が京都でも鼓吹されることになった。兀菴普寧という優れた禅僧も渡来したが、時頼が死去すると、帰国した。渡来僧の大休正念は三教一致の思想を持ち、北条時宗の弟の時政を初めとする鎌倉武士に朱子学を説いている。
時宗は蘭渓が死去すると、使僧を遣わし、無準の高弟の環渓あたりを求めたが、弟弟子の無学祖元が来日し、鎌倉に円覚寺が建てられた。これにより、鎌倉の武家社会は禅あるいは禅文化の受容に関して主導的立場を確立することになった。
元は二度の日本侵略に失敗すると、方針を変えた。日本が求めている禅僧を使節として送ることにより、属国となるよう勧誘しようとしたのである。正安元年(一二九九)、一山一寧は国書をたずさえて日本に渡来した。北条貞時は、元のスパイと疑って伊豆修禅寺に囚えたが、のちには建長寺の住持に迎えている。一山は、中国でもその力量を知られた禅僧で、偈頌(漢詩文)にすぐれ、儒教にも通じ、書道・水墨画の素養をもち、鎌倉の禅文化の発展にも大きく貢献した。その後、日本からの招きに応じて渡来した人物には、一流の人々が多かった。鎌倉末期には清拙正澄・明極楚俊・竺仙梵遷らがいる。清拙正澄は清規(禅の規範)に詳しく、明極素俊、竺仙梵僊は漢詩文に優れ、またとくに、竺仙は印刷に関しても深い知識を持ち、宋版に倣って、日本の五山版の出版に貢献した。この事業は、京都の天竜寺や臨川寺を中心に行われた。また、竺仙の影響を受けた大喜法斤の系統は鎌倉に赴き、円覚寺続灯庵で出版事業を行った。
しかし、それ以降、渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永?が観応二年(一三五一)に渡来したにすぎない。鎌倉末期から南北朝期にかけて活動し、後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依を受けて日本の禅宗界を代表した夢窓疎石には、中国への渡海の経験はない。日本では純粋禅は浸透しにくい面があった。したがって密教的要素を禅のなかに融合させた夢窓の一派が南北朝期を通じて勢力をもつようになっていった。
道元は十三歳のときに出家して比叡山に入り、三井寺でも学んだが、建仁寺に赴き、栄西の門弟の明全に禅を学び、その明全とともに貞応二年(一二二三)に宋に渡り、曹洞宗天童山景徳寺で如浄の法を受け嗣ぎ、安貞元年(一二二七)に帰国した。その後しばらく建仁寺に身を寄せたが、建仁寺を出て山城深草に移る。教禅兼修の建仁寺で純粋禅を説いたため比叡山僧の迫害があったのであろう。深草に興聖寺を開き、六波羅の波多野義重の亭で、また、六波羅密寺で『正法眼蔵』を説いているが、1243年、突然、越前に入り、寛元二年(1245)には大仏寺を建立し、1247年には同寺を永平寺と改称している。
道元の禅は「只管打坐」(ただひたすら坐禅すること)の禅風で、釈尊以来の諸祖は坐禅により得道してきたとし、坐禅こそ仏法の正門であるとする。それは、坐禅を悟るための手段とはせず、それ自体に絶対の価値を見出し、「修証一如」すなわち、坐禅(修)が悟り(証)であるとする純粋禅であった。また、在家成仏・女人成仏の立場を明確に示し、坐禅修行がそのまま悟りであるとすることから末法思想を否定した。道元は純粋禅を説いたが、永平寺二世の孤雲懐奘の門弟で、永平寺三世となった徹通義介が兄弟弟子である義演と永平寺の三世をめぐって相論を起こした。いわゆる永平寺三代相論であるが、それは教団の発展を意図した義介一派と、枯淡な道元の純粋禅を守ろうとした義演一派との永平寺住持職をめぐる争いであるとされる。結局、義介は永平寺を出て、加賀押野荘の大乗寺を禅寺に改宗し開山となり、富樫氏の外護を受けることになった。
U、【禅宗の日本的展開―曹洞禅を中心として―】
(1)曹洞禅の展開地域とその時代―他宗派との比較において―
南北朝期・室町期に入っても比叡山や南都(奈良)興福寺・東大寺などの旧仏教系の諸大寺は広大な荘園を有しており、政治的にも絶大な影響力をもっていた。興福寺などは、大和国守護職を称し、一国支配を確立していたほどである。しかし、鎌倉期に起こった新仏教系の諸宗派も、禅宗の五山派は中央武家政権や朝廷公家社会に受容され、夢窓疎石が後醍醐天皇の帰依を受け、のちには、足利尊氏とくにその弟の直義等の外護を得て安国寺・利生塔の設置の施策などに携わり、五山派の発展に大きく寄与している。また、各地の守護層にも受容され、漢詩文の素養から外交僧としても活躍した。五山派に属さない林下と称される禅宗のうち妙心寺派や大徳寺派は京都に本山をもつことから、山隣派と称されて、おもに畿内を中心としながらも各地の守護や武士勢力の信仰を得て展開した。また、やはり、@禅宗の林下に属する道元門下の曹洞宗はやや山間部の後進農村地帯に展開し、在地武士や上層農民等に受容されていった。A日蓮宗は関東を中心に展開しながら、京都に進出し、おもに、商工業者の信仰を集めていった。B浄土真宗は畿内およびその周辺の先進農村地帯や北陸・東海地方の職人や農民・在地武士の間に受け入れられ、発展を遂げている。
このように、中央政界のみならず、地域社会、各地方に受容されてゆき、在地武士や民衆社会に教線を浸透させていったといえる。
曹洞宗では、永平寺から加賀大乗寺に出た徹通義介から瑩山紹瑾が出て、能登に永光寺・総持寺(一三二一年)を開き、総持寺を拠点とした峨山紹碩の門下(二十五哲〈優れた門弟二十五人〉)は全国的な規模で展開を遂げていった。
曹洞宗の小本寺(末寺を持つ寺院)の成立年代を見ると、曹洞宗寺院の建立は、南北朝合一のころにまず、最初の多数を見せる時期を迎え、次には、戦国期から江戸期初期まで、多くを数える。戦国期初期、戦国期中期、関が原の戦後にそれぞれピークがある。そして、これは、禅僧たちの漢詩文による語録の内容のほとんどが、葬祭関係になる時期と一致する。葬祭活動が、曹洞宗の展開と無縁ではなかろう。
(2)在地武士層への展開の形
曹洞禅僧たちは在地の武士達の帰依を得て教線を拡大していったが、それには三つの型があった。これを下総国(茨城県)の結城氏とその関係のなかでみてみたい。三つの型とは、つぎのようである。
@連合関係(一揆的結合)に添っての発展 A一族関係(血縁・擬制的血縁関係)に添っての発展 B主従関係に添っての発展
まず、在地の有力武士の@連合関係に添っての発展からみてみることとする。下総結城氏の場合、南北朝期に念仏系の信仰に加えて臨済宗、ついで曹洞宗源翁派(安穏寺・一三七一年成立)を受容し、宝徳元年(一四四九)に相模国関本の大雄山最乗寺系統の松庵宗栄という僧を招き、乗国寺を建立している。
その後、この松庵の門下は結城氏を盟主に仰ぎながらも独自の行動をとるような関係にあった山川の山川氏・下妻の多賀谷氏・下館の水谷氏に受容され寺院を建立していった。つぎのような寺々である。
@在地領主連合関係
開基家 | 寺名 | 開山名 | 成立年 | 所在地 |
結城氏 | 乗国寺 | 松庵宗栄 | 1449年 | 結城小塙 |
山川氏 | 長徳院 | 日州幸永 | 1449年 | 山川今宿 |
(乗国寺開山松庵の弟子) | ||||
多賀谷氏 | 多宝院 | 小伝宗ァ | 16世紀前半 | 下妻 |
(乗国寺二世中明栄主の弟子) | ||||
水谷氏 | 定林寺 | 良室栄忻 | 16世紀前半 | 下館岡芹 |
(乗国寺五世) | ||||
水谷氏 | 芳全寺 | 威巌瑞雄 | 1545年 | 久下田 |
(定林寺開山の弟子) |
しかも、山川今宿の長徳院三世の天祐舜宥は、近くの大木に東光院を十六世紀前半に、下館岡芹定林寺の弟子威巖瑞雄は、水谷政村が宇都宮氏を圧して久下田に城を築いた翌年の天文十四年(一五四五)、同地に芳全寺を建立している。このように、結城氏の進出にはじまり、山川・多賀谷・水谷氏への進出は、在地武士の連合関係に沿っての発展であった。
つぎに、A一族関係に添っての発展についてみてみよう。結城政朝は永正十二年(一五一五)、やはり相模最乗寺の系統である了庵、無極派の培芝正悦を招き永正寺(のちに孝顕寺と改称)を開いている。培芝は小山氏の外護を受けていた大中寺の二世で、同氏の外護で天翁院を開いていた禅僧である。
当時、結城政朝の次男高朝が、小山政長の養子となっていた。なお、永正寺二世となっている笑顔正忻が政朝の子であるとされている。このように、大中寺門派の結城氏への進出は一族関係(血縁・擬制的血縁関係)に添っての発展であった。
A一族関係(血縁・犠牲的血縁関係)
小山氏 | 大中寺 | 山田 | ||
(結城氏の次男が養子に入る) | ||||
同氏 | 天王院 | 培芝正悦 | 小山 | |
(大中寺2世) | ||||
結城氏 | 永正寺 | 培芝正悦 | 1515年 | 結城 |
(大中寺2世・天王院開山) |
さらにB主従関係に添っての発展についてみてみることにする。多賀谷氏に受容されて下妻に進出し、多宝院を建立した小伝宗ァの門下で、同院三世の祥山随貞が、多賀谷氏の家臣桐ヶ瀬経頼の招きを受けて桐ヶ瀬に正法寺を元亀二年(一五七一)に開創している。多賀谷氏―桐ヶ瀬氏と多宝院―正法寺の関係を見るとき、主従関係に添っての発展とみることができる。このことから、主従関係に添った展開では、国人(在地の有力武士)から小領主・上層農民(在地武士・土豪・有力農民)さらに国人の支配地域全体への発展という形が指摘できよう。
B主従関係
多賀谷氏 | 多宝院 | 小伝宗ァ | 16世紀前半 | 下妻 |
桐ヶ瀬氏 | 正法寺 | 祥山隋貞 | 1571年 | 桐ヶ瀬 |
(多賀谷氏家臣) | (開山は多宝院3世) |
(3)禅僧と地域権力・地域社会
戦国大名が領国経営のために作成した戦国家法には、寺院等に走り入った下人等は速やかに主人のもとに返すことを求めるものや、逃れ入った犯罪人の引渡しや追い出しを求めるものが見られる(結城氏新法度・塵芥集)。基本的には、寺院等が持つ駆込寺の機能については、否定する方向にあったといえる。しかし、地域の矛盾を緩和する機能として、「必要悪」として認めざるを得ないとする領主も存在した。渥美半島に勢力を持った戸田全久は菩提寺の長興寺に、逃れ入った「百姓」を領主に届け出るように要求しながらも、「依事叶百姓之望可被早還住」とあって、事によっては農民の望みをかなえてやって、はやく、住居に戻れるように仲介するように要請しているのである(戸田全久置文)。また、奥州(福島県)三春の田村隆顕は福聚寺に「条書」(弘治三年〈一五五七〉)を発して、走り入った者に対して、「寺家江走入之事、一命を被相扶候事者、無御拠候、」とあり、一命を助けるということはやむをえないこともあるが、長々と寺中に置いておくことはあるまじきことであるとしている。寺院が持つ、駆込み者の一命を助けるという特権的行為に関しては認めているのである。
【長野氏と長年寺】
上野国(群馬県)榛名山近くの箕輪の城主長野業尚は文亀元年(一五〇一)、当時、上杉氏や長尾氏などの帰依を受けて活躍していた曹洞宗の曇英慧応という禅僧を開山に招いて長年寺を建立している。嫡子憲業をはじめ庶子の金子氏、家臣の下田氏などの協力をえてのものであり、一族・家中結束の場としての寺院であった。
永正九年(一五一二)、跡を相続した憲業は、この寺に、「壁書」を定め置いている。その一条目に、一、〈於〉当寺、縦雖重科之〈者〉候、御門中於〈入〉者不可及成敗事
とある。たとえ寺内に殺人犯のような重罪人が入り込んでも、それを処罰するために踏み込むことはしない。第二条は、第一条で踏み込まないようにしているのでそのかわり寺の側では、「子細ある」遁世人(出家者)すなわち反逆したり、罪を犯したりして、遁世したような人物を寺内に入れないようにすべきであるとし、第三条は寺中の山(竹木)を切取ることを禁止している。
従来、第一条だけが問題にされることが多く、第二条・三条を含めて検討されることは少なかった。
第一条と第二条とは相反するような内容であるが、第二条は「不可被入事」とありとくに寺側に要求する文言となっている。第一条と第三条は、長野氏自身をはじめとする一族や家臣など周辺の武士などに向けて述べているのに対して、第二条は、寺側の姿勢に関するものである。
この壁書(とくに第一条)に対する網野善彦前掲書の見解は、たとえ重罪人でも寺の境内に走り入った者は保護されるという、世間からの「縁切りの原理」が、ここにも生きている、というものである。この網野氏の「無縁所」論に対して、神田千里「中世後期における『無縁所』について」(『遙かなる中世』一、一九七七)は、とくに中世後期の無縁所寺院について「無縁所」はむしろ戦国大名によって設定されたものという性格が強く、戦国大名は在地結合の結節点であった寺院を統制下に組み入れ在地とは無縁にし、在地結合を解体してその支配を完成させたと論述している。
しかし、長年寺の場合は、その成立のされ方に注目すべきである。一族・家臣の結束の場として成立したのであるから、神田氏のように、一族や家臣と長年寺を切り離すための壁書であるとみるべきではなかろう。また、網野氏のように従来からの特権を主張し、在地権力に認めさせたともみることができない。つまり、長野氏自身もたとえ重罪人でも踏み込まないことを約することにより結束の場として、そのシンボルとしての長年寺の聖域性を高めようとしたと考えるべきである。しかし、第二条には、寺側の対応を求め、できうるかぎり、罪を犯して出家したような遁世人を受け入れないようにという在地権力者としての本音が出ており、寺側に要請していると考えるべきである。この壁書は菩提寺の聖域性も必要であり、地域の治安維持も保たねばならないという在地領主のジレンマがそのまま表れたものと位置づけることができる。
いずれにしても、このような対応は、治安維持を第一に考えなければならない戦国期の領主にとって、自殺行為にも近いような重罪犯にたいする処置である。
しかし、このような、対応は長野氏のみではなかった。若狭国(福井県)小浜の武田信豊は真言宗の正昭院に対して、祈願寺として認定したので、「殺害刃傷」の犯人であっても、「山海之両賊」であっても、走り入った場合には、寺が扶助したことを申し届けるなどの的確な対応をすべきであり、たとえ犯人の主人でも、寺内での乱暴や「誅罰」は許さないというものであった(網野善彦『無縁・苦界・楽』一九七八)。
上記二例とは異なるが、家康も松平家の菩提寺である大樹寺に、永禄12年()六月の禁制で、同寺は不入の地であるので、たとえ罪科人でも、奉行人と名乗って「検断」(処罰)を実行するようなことは許さない。寺の判断で「追罰」すべし、とする。
【島津氏と福昌寺住職の出寺】
中世社会には、このような特権をもっていた寺院がいたるところにあった。しかし、戦国時代も後半のころになると、統治者として、犯人の所在が解っていながら捕縛しないといようなことが許されない状況になってくる。鹿児島の玉龍山福昌寺はザビエルも寄宿しているという島津氏の菩提寺である。同寺もアジール(避難所)の権限を認められていたようである。福昌寺は応永元年(一三九四)に島津元久が玉龍山の麓に建立した曹洞宗の寺院で、一五四九年、鹿児島に着いたザビエルも一時居住した鹿児島随一の寺院であった。開山の石屋真梁は、島津氏の一族伊集院忠国の11男であったといわれる。元久は寺領と梵鐘を寄進し、応永二年正月に、「禁制」を置き、寺山の竹木伐栽、殺生、放鷹、門前の川の殺生(漁)を禁じ、同四年四月九日の「禁制」にも、「 一、於二 寺家一元久如何程母雖レ有二大分寄進一 不レ可レ有二違乱一事」と定め置いており、寄進者たりといえども違乱があるべきでないと自重の文言を記している。この二つの禁制は、福昌寺の住持が、同寺にたとえ重科人が走入っても踏み込んで成敗するようなことにしないということになっていることを強調する重要な根拠となったものであり重要である。
ついで、島津元久と久豊は応永11年に父の氏久の菩提供養のために「旦過」の庵である同集庵を建立し、所領を寄進している。禅宗では「旦過」とはいうまでもなく、「旦過寮」のことをいい、安居を希望する修行僧や客僧や旅の僧を一夜(一時)、宿泊させる施設である。福昌寺は、このような施設を独立した建物として持っていたことになる。福昌寺は、当初より、外部から突然訪れた人物でさえも宿泊させるような施設を特別に持っていた寺院であったということになる。ザビエルが旦過同集庵に宿泊したか否かは別としてそのような性格を持つ寺院であったといえる。
なお、旦過には、網野氏が高野山の例を引き、アジールとしての性格を持つ建物であり、同敷地内に入れば重科人でも身の安全が保障されるという建物であり、「遁科屋」(たんくわ屋)であることを述べておられるが、この旦過同集庵も単なる修行僧のためばかりでなく、「遁科屋」の性格を持った建物であったとみてよかろう。その同集庵の建立は、父の菩提供養のためであり、孝子の善行であることは注目される。アジールの保護の背景には、このような観念が存在することを物語っている。応永十一年の頃の島津元久は自ら開創した菩提寺・福昌寺に寺領を寄進し、禁制を定め、自重し、旦過を設けて、アジール性を高めていったと見ることができる。
旦過同集庵が建立されてから11年後の永正12年(1515)に寺内に刃傷事件が起こっている。これに対して11世の天祐宗津(島津忠国の第九子)が、島津忠隆に訴え、忠隆がこれを詫び、今後は、大犯三ヶ条を犯したような大罪人であろうと走入った者に対して刃傷におよぶようなことはしない旨の誓紙を書いている。忠隆は、「国家怨敵」の族が寺家に走入ったので、成敗(殺害)してしまったと詫び、以後の不入を誓っている(田中久夫「戦国時代に於ける科人及び下人の社寺への走入」〈『歴史地理』七六巻二号〉)。住持天祐の批判は相当なものであったろうことが理解できるが、その根拠となったのは応永二年と同四年の元久の禁制であり、旦過同集庵の存在であったといえよう。特に殺傷禁断と外護者の自重の内容を持つ禁制は「走入」を認める内容を持っていたことになる。
それ以降、福昌寺の「遁入」の特権は守られて、天正二年(一五七四)を迎えることになる。坂本勝成氏は島津家家老上井覚兼の日記である「上井覚兼日記」天正2年12月の記載を用いて寺社の権力が否定されていく過程を示す事例としている。事件の経過は次のようである。肥後天草郡の領主である志岐鎮経の使者とその同伴者を、鹿児島郡吉野において襲った山賊が福昌寺に走入った。ちょうど島津氏は、天草の領主である志岐鎮経との和平の交渉を行っている最中での事件であった。(『同日記』同年同月二十三日の条)。島津側ではどうしてもその犯人を罰したかったに相違ない。島津家の老中は福昌寺に山賊を引渡すように要求したが、住持代賢守仲が引渡すことを拒んだので、家臣を差し向けた。住持が引渡しを拒んだにもかかわらず盗賊請取の触役人の坂本氏はかまわず寺内に入り、鎮守の前で切り合いがあり盗賊を打取った。これに対して代賢守仲は童子一人を連れて寺を出てしまった。福昌寺の有力末寺である南林寺が留めたが、仲介はうまくゆかなかった。代賢は出寺の理由を次のように述べている(『同日記』同年同月十九日の条、『同日記』同年月日の条)。
このようなことになったのは、老中衆に「越度」や(とが)「科」があるのでもなく、 ましてや「大守様」(島津義久)に「恨」みがあるわけでもない、ただ、「寺家之疵」「寺家之災難」が起こってしまった。そこで、このような事件をわかもののおぼえ「若者覚」すなわち後世の教訓として、また「日本国中之覚」すなわち不入の寺院で殺害が行われたことを日本国中の教訓とするために他国、つまり出寺するというのである。大壇越である島津義久や老中衆を直接的には非難してはいないが、「若者覚」「日本国中之覚」といって出寺して、間接的にはかなり痛烈な批判を加えている。それほど寺院側にとっては、大変な事件であったといえる。なお、住持代賢が出寺後居住した谷山の地は、寺領のある地であった。
一方、出寺した住持に対して、義久がその居所まで出向いて帰寺を宥めている。そして、義久の仲介により、結局は住持が老中衆に詫びを入れる形となっている。義久が強く帰寺を望んだのは、福昌寺およびその住持代賢の存在は島津家にとって重要なものであったからであろう。義久は、出寺事件の一ヶ月余前に、福昌寺庫裡の葺茅のために吉野まで自ら出向いており(『日記』)、また、後の天正13年9月のことであるが、義久は、肥後隈庄に福昌寺住持の天海正曇を遣わし、戦没者供養の大施餓鬼会を行っている(『日記』同日条)。また、天正11年2月のことであるが、家老の上井覚兼等は島津義久の病気平癒祈願のために、日向国の法華嶽寺に参籠している。この旧仏教系の霊山を禅宗に改宗し、再開発したのが、代賢であった。福昌寺および住持の代賢守仲ともに島津氏にとっては重要な存在であった。義久が自ら出向いて帰寺を宥める必要があったのである。
【関東寺院住持の出寺】
住持が領主の踏み込みに抵抗して出寺するという事件が各地で起こるようになってくる。関東でも例外でなかった。
下妻(茨城県)の多賀谷氏の菩提寺多宝院も多賀谷氏が結城氏を盟主と仰ぎながらも独立してゆく、そのシンボルとしての意味があった。おそらく、聖域化が図られた寺院であったろう。その多宝院に処刑されそうになった人物が駆込んだ。住持は助命嘆願したが許可されなかったので、その人物を僧にし、伴って出寺して、下野長野というところに住した。帰寺を願った多賀谷氏は、下妻に長野という地を作り、寺庵を作り、迎えたという。
古河公方の重臣で下総(茨城県)関宿城主の簗田氏の菩提寺を東昌寺という。逆心が露見した本間氏が走り入った。梁田氏は是非を省みず成敗(殺害)してしまったので、これに抗議した住持は出寺している(天文19年〈1550〉以前)。梁田高助は近隣の有力寺院である乗国寺に、再三にわたり、帰寺への仲介を依頼している。その中で、殿堂の造営を約束しているのである(乗国寺宛梁田高助副状2通と同書状1通)。
安房国(千葉県)里見氏の菩提寺の本織延命寺に殺害者が「山林」(駆込)している。元亀2年(1571)頃かと考えられる。同寺が駆込寺であったことが判明する(里見義尭書状、義弘書状)。また、里見義頼は天正8年から10年頃(1580〜82)に近隣の真如寺に延命寺の住持の帰寺の斡旋を頼んでいるので、何らかの理由で、住持が出寺していることが伺える。
これまで、戦国期においてアジール性を強く持った禅宗寺院について考察を加え、とくに住持の「出寺」という問題を中心に寺院と地域権力との関係についてみてきた。ここで明らかになったことは、「出寺」して地域権力者に抵抗したのは、その菩提寺の住持であるということ。そこで、菩提寺としての成立のされ方をみると、上野長年寺の場合は、長野氏の葬祭の場であるとともに、一族・家臣の結束の場としての、また、そのシンボルとしての性格を強く持って成立した。薩摩福昌寺の場合も島津元久が鹿児島郡・谷山郡に進出し、勢力を拡大した時期の建立であった。常陸国下妻の多宝院は多賀谷氏が結城氏からの独立を示すシンボルとして成立した。それらの寺院の中には、以前からのアジール性を引き継いで禅宗として改宗された寺院もあったかもしれないが、それよりも檀越が聖域性を高めるためにアジール性が付与されたとみるべきであること。福昌寺の事例であるが、「遁入」者保護の特権は檀越の「殺生禁断」と自重の内容を持つ禁制によって付与されていたこと。また、島津氏が福昌寺にアジール性を強く持った「旦過」を建立しているが、それは、父の菩提供養のための孝子の善行であるという意識が存在した。そして何よりも重要なことは永正十二年(一五一五)の段階では、島津忠隆は家臣が、寺内で刃傷事件を起こしてしまったことを詫び、以降の不入を誓っているのに対して約60年後の天正2年(1574)の段階では、義久が住持の居所まで出向き、帰寺を宥めているものの、住持が老中衆に詫びる形となっている。両者の差は歴然であったこと。福昌寺住持の代賢の意見から伺えるように住持の「出寺」には並々ならぬものがあったこと。「出寺」後の居住先は福昌寺住持の谷山であったり、多宝院住持の長野長谷寺であったりして、すでに何等かの拠点となっていた地であったこと。帰寺に際しては仲介者がおり、殿堂の改築等の条件が出されていることがあったこと。そして、「出寺」するからにはその効果があるからこそであり、どの権力者も仲介者を頼むなどして帰寺を願っているのであり、権力に圧迫されつつあったとはいえ、その地域や檀越家の中では、依然として重要な機能を果たす存在であったといえる。
(4)曹洞禅と葬祭
戦国時代の天文元年(一五三二)、摂津国(大阪府)尼崎の墓所に掟が定められている。「摂津(せっつ)尼崎(あまがさき)墓所(むしょ)掟(おきて)」である。これによると、葬送は火屋・荒墻・四方幕(よほうまく)・龕(がん)(厨子のこと)とその蓋(ふた)、そして導師への引馬が用意され、銭百疋(千文)と収骨者に五十文が渡される最高のものから、十文で亡骸を筵に包み「無縁取捨」てるものまで五段階に分かれていた。つまり、さまざまな階層の人々が経済力に応じて、葬儀を行うようになっていたことが知られるのである。
また、永禄年間(一五五八〜)に、近江(滋賀県)の永源寺という臨済宗の寺院に、禅寺内の規範を集めた「諸回向(しょえこう)清規(しんぎ)」には戒名の下に付す文字を身分に応じて区別すべきことが述べられている。これも葬儀を行う風習が諸階層におよんだことへの教団側からの対応の姿であるといえる。
十三世紀から十六世紀前半に活躍した曹洞禅僧たち十五人の語録をみると、@14世紀半ばごろまで活動した禅僧の語録は坐禅や宗旨に関する内容を持つものの分量が多い。A14世紀後半より15世紀はじめごろまで活動した禅僧の語録では、葬祭関係の分量が上まわりながらも坐禅関係との差は少ない。しかし、B15世紀初期以降は葬祭が圧倒的に上まわっており、ほとんどが葬祭関係である語録もある。曹洞宗は戦国期から近世初期にかけて最も多くの寺院が建立され、発展を遂げたことが理解できるが、それが禅僧たちの語録に引導法語や法要における法語などの葬祭に関する法語の分量が多くなる時期と一致するところから、両者は関連しているとみてよかろう。ちなみに江戸中期の延享年間には、1万7000か寺を数えるに至る。
東海地方は、いわゆる新仏教では浄土真宗・浄土宗・臨済宗とともに曹洞宗が展開した地域である。なかでも遠江はとくに曹洞宗が著しい発展を見せたところである。この地域で活動した禅僧に松堂(しょうどう)高盛(こうせい)(1431〜1505)がいる。
ところで、引導法語等の葬祭関係の法語には、禅僧が授けた戒名が記されている。この戒名の下に付された文字から、階層が推測できるのである。その位階とは、
(男)居士―庵主―上座―信士―禅定門(4字or2字)―禅門(4字or2字)
(女)大師―――尼上座―信女―禅定尼(4字or2字)―禅尼(4字or2字)
というものである。ここでは、松堂の語録について見ることにしたい。
松堂高盛(1431〜1505)は遠州中部の原野谷川の流域にあり、国人原氏の外護を受けて建立された円通院の三世として、戦国時代前半期に活動した禅僧である。松堂は原氏一族の寺田氏の出身。足利学校で学んで、故郷の一族の寺の住持となった。彼の語録には、三二三人の戒名が見える。庵主・上座のなかに、武士と判明するものが三人おり、四字禅定門の中に、遠江中部地帯に勢力を持った原頼泰の父親が存在するので、居士・大姉以下、四字禅門(尼)までの位階には原氏のような在地の武士を中心とした階層が存在したことになる。全体で一四七人であり、四五、〇%である。これに対して、二字禅門のなかに、舞士・鍛冶師・農民が各一人、二字禅尼のなかに舞者の母(土葬)・農民二人(うち一人は土葬)が含まれている。二字禅門(尼)は職人・農民つまり民衆の位階といえ、一四三人であり、四四,三%である。松堂の時代、すなわち、曹洞宗が最も発展し、寺院を建立していった時期の禅僧は武士階級とほぼ同数の民衆にも葬儀を行っていたことになるのである。なお、民衆の中には、土葬が見られる。土葬の方が火葬より費用がかからない。より下層の人々の葬法といえる。
このような曹洞宗の全国展開と禅僧の活動により、武家に施していた戒名を安名し、引導法語を読み上げて(引導を渡して)火葬や土葬を行うという一般的な葬儀の方法が農村地域、一般民衆の階層にまで伝播していったといえるのである。この各地域での葬儀の方法は、他宗派にも少なからず影響を与えていった。そして、このような、戦国期の僧侶・寺院の活動の基礎があって、江戸期に幕藩が寺檀制度という政策を敷くことを可能にしたのである。
茨城県結城市東持寺の所蔵する「あこ下炬集」は近世初期の関東の引導法語集である。「新羽」や「樽」「師岡」(現在の横浜市・港北区)などの地名がみられることから、南武蔵の地域で活動した禅僧が葬儀の際に唱えた引導法語であることが知られる。同書は寛永六年(1629)から同十六年の一〇年間に行われた葬儀に際してのものである。寛永六年(一六二九)から寛永十六年(1639)の一〇年間のものである。「禅定門」とか「童子」とかの文字が戒名の下に付されているが、成人男女には「禅定門」「禅定尼」が用いられている。
ここで注目されるのは、
J「師岡与三郎下女」 M「散田長兵衛内ノ者曽衛門」
P「六兵衛ノ下女」(享年36歳) Q「長兵衛ノ下部」(享年26歳)
と、「下女」「下部」「内ノ者」と付記された人びとである。これらはある者に従属していた人びとである。MとQをみると、「散田村」の「長兵衛」に属していた「下部」と「内ノ者」で「曽衛門」という人物がいたことが知られる。「散田村」の「長兵衛」が相当の有力農民であったことが想像されよう。また、「下女」を抱えていた「六兵衛」「師岡与三郎」も地域の有力者とみることができる。
有力農民たちへの引導法語も、従属者たちへのものも、ほぼ同様の形式であり、文章の長さもほぼ同量である。ただし、戒名の方は、和尚・上座・童子等五人を除く他の人びと15名が「浄岩妙清禅定門」(22)のように四字+禅定門(禅定尼)であるのに対して、「下女」「下部」等の有力農民に従属するような立場にあった人びとは、いずれも二字+禅定門(禅定尼)であり、簡単な戒名となっている。ほかに、2字+禅定尼には、 G「妙江禅定尼 散田村惣五郎母下火」がある。誰々の「下女」と書かれてない分だけ惣五郎と母は独立性が強かったのであろう。
この「下女」や「内ノ者」に対する葬儀の費用が主人の家から出ているのか、遺族から出されたものか、何処から出されたものかは不明であるが、いずれにしても、寛永年間(1624〜43)には、「下女」や「内ノ者」にまで、僧侶によって引導法語が作成され、葬儀が行われていたことが知られるのである。
(5)曹洞禅と授戒会
1、瑩山と「三木一草事」
道元−懐奘−義介−紹瑾の各禅僧が多くの人々に授戒し、そのうちのわずかな人々に伝戒していたことが、瑩山が著した「三木一草事」の巻末より知ることができる(椎名宏雄師の指摘による)。それを整理するとつぎのようになる。
@道元 別願授戒 1000人 伝戒 5人 A懐奘 授戒 600人 伝戒 5人
B義介 授戒 300余人 伝戒 4人 C紹瑾 授戒 700余人 伝戒10余人
(正応〜元亨) (現在存命7人)
道元が多くの人々に菩薩戒を授けていたことは、瑩山が慧球大姉に戒法を授け、戒に関する「教授文」を与えた時に、その巻末に、「永平和尚あまねく諸人にさつけしゆえに、」と記していることからもうかがえる。
2、乾坤院の授戒会
曹洞禅僧の間で道元禅師以来、盛んに授戒(あるいは授戒会もか)が行われていたことを知るが、戦国時代には、具体的な授戒会の姿がみえてくる。曹洞禅僧の行った授戒会については愛知県知多郡東浦町緒川の乾坤院所蔵の「血脉衆」「小師帳」により明らかとなる。「血脉衆」には文明9年(1477)7月17日から長享2年(1488)2月10日の10年間半にかけて逆翁宗順が授けた724名の戒弟の戒名と居住地や職業等が記されており、「小師帳」には延徳2年(1490)から同3年7月17日にかけておよそ9ヶ月間に授けられた77名の戒弟の戒名や名等が記されている。その戒師は芝岡宗田と考えられている。両書をみると一度に多くの戒弟を出す授戒会と個人に授けるたんなる授戒とがあった。両者ともに仲介僧によって戒弟が「引」かれてくる場合があった。授戒会は春秋の彼岸会、仏涅槃日、仏誕生日などに開催される場合が多かったようである。
戒名は2〜3日あるいは4日間ほどの修行期間で授けられたようであるが、「血斗」(血脈ばかり計の意か)とあって、一定の修行生活を経ないで血脈だけを受ける戒弟も存在した。授戒会には近隣の村々から参加する場合と、遠距離からの「千頭殿と千頭衆」や石浜村の網元と浜の衆と考えられる「石浜権守と石浜(衆)」などのように一地域から集団で、あるいは諸地域から諸階層の人びとが、あるいはまた、「内方」「父」「母」「子」「女」(娘)「姉」「孫」など夫婦・親子やその縁者という親族で参加する場合などがあった(拙著『禅宗地方展開史の研究』)。また、戒を受けた人々を地名別に集めてみると、遠州の野部では「野部」「野部市場」「紺野入道」「野部治部殿」などと記されている人物がおり、野部には市場があり、地域の有力者や職人の長が存在したことがわかる。
「血脉衆」や「小師帳」をみると、水野氏のように「殿」が付されている在地武士やそれらに仕えていた「上郎」「女房達」「下女」や内海荘の代官など諸階層の人々が授戒会に参加しており、「酒屋」「鍛冶屋」「紺屋」「番匠大工」「筏師」などさまざまな職業の人々が参加していたことが知られる。しかし、授けられた戒名はいずれも二字であった。階層・職業にかかわりなく授けられたことが知られる。また、「引」などと付された僧侶もみられ、多くの寺庵名も見ることができる。授戒会には、仲介僧の活動があったことも窺える。
3、徳昌寺の授戒会
それは近江国(滋賀県)の徳勝寺(現在は長浜市平方町に所在)の「(徳昌寺)戒帳」からも様々なことが理解できる。同書には、近江の戦国大名浅井氏の菩提寺の徳勝寺の住持が授けた戒弟が記されている。天文4年(1535)11月25日から永禄11年(1568)2月21日にかけての32年3ヶ月間に授けられた419名の戒弟と文禄2年(1593)から慶長12年(1607)ごろまでの位階のついた「戒名」と戒弟62人の記載である。授戒会は浅井氏の小谷城下清水谷にあった徳勝(昌)寺、その前身ともいえる下山田の医王寺、浅井氏と同盟を組んでいた美濃の岩手氏が開基した禅幢寺などで行われた。さきの「血脉衆」や「小師帳」に比べると浅井氏一族以下の武士の記載が多い。それでも舞々大夫のような下層の人々も記されている。
浅井亮政や「大方」(正室)、「女房衆」(側室たちか)や「子息」「子女」」など、浅井氏関係の者の記載が圧倒的に多い。また、井関・堀部・今井・田根・雨森などの家臣団からの参加がみられる。また、浅井氏と同盟関係にあった美濃国の岩手氏やその家臣の北村氏の一族からの参加者も多かった。浅井氏の徳昌寺や岩手氏の禅幢寺において行われる授戒会などの法要が同盟関係や主従関係をより強固なものにしたに相違ない。また、曹洞宗が武家の同盟関係や主従関係に沿って展開していった具体的な姿をここに見ることができるのである。これらの戒名のほとんどが二字の戒名のみの記載である。たとえば、天文6年4月12日の徳昌寺(徳勝寺)における授戒会からも具体的なことが明らかになる。この授戒会には56人が参加しているが、俗名の下に「殿」が付されている者や、それよりも下層であるが村落における有力者であると考えられる俗名の下に「方」が付されている者、また「セイミツ大夫」や「千大夫」などの名のみの者で、舞々大夫のような下層の者など、さまざまな階層の者が参加していることがわかる。なお、岩手氏の家臣の北村氏には「方」が付されている。天正15年8月22日の岩崎社の社殿葺替の棟札では、岩手長誠・万千代丸が〔施主〕であり、北村但馬守長吉は作事奉行を勤めている。この関係が、授戒会の場でも反映されている。
【おわりに】
これまで、曹洞禅僧たちの広範な活動を見てきたが、道元が宋よりもたらした坐禅の行を基本においた禅僧が行う祈祷・授戒会・葬式法要ということで各地の武士や上層農民・職人などに受容されて、戦国期には多くの寺院を建立していった。とくに、武士の行う葬儀の形を農村にまで広めたのは同宗の活動に拠るところが大きいといえる。このような、地域社会の中での活動が、江戸期の檀家請制度を準備したといえよう。