最新刊案内

曹洞宗における永平寺・総持寺の二大本山とは、
(朝日ビジュアルシリーズ 週刊仏教新発見22 2007年11月 要旨)

 道元・懐奘のあとを継ぎ、永平寺三世となったのは徹通義介であったが、兄弟弟子の義演との間で永平寺の住持をめぐって相論が起こっている。いわゆる永平寺三代相論である。それは、教団の発展を意図した義介一派と道元の純粋禅を守ろうとした義演の一派との永平寺住持職をめぐる争いであったとされる。たしかに、宋に渡り知識を深めた義介と、道元の『正法眼蔵』の書写に尽力した義演とには差異があった。結局、義介は永平寺を出て、加賀野々市外守の大乗寺(江戸中期に現在地〈金沢市長坂町〉に移転)を禅寺に改宗し、富樫氏の保護を受け開山となった。永仁元年(一二九三)のことであった。

 

 加賀大乗寺に出た義介の門弟から瑩山紹瑾が出るにおよんで、一大画期が訪れた。瑩山は文保元年(一三一八)、能登に永光寺(羽咋市)、元亨元年(一三二一)に総持寺(門前町、明治四十四年に鶴見に移転完了)を開いている。瑩山は、永光寺に住職を短期間で交代し栄誉を分かち合うという輪住制を敷き、門派の結束を図った。

 

  総持寺二世の峨山には多くの優れた門弟が排出し、その門下は全国的な規模で展開していった。当初は総持寺峨山の門派も永光寺の輪住制に参画し、その運営を支えていたが、明峰の門派が、大乗寺を拠点にして派内の優位を唱えだしたので、十四世紀後期より永光寺からの独立を模索しはじめ、十五世紀半ばころには完全に独立した。

 

 総持寺も峨山が永光寺にならい輪住制を敷いた。住職の就任期間は、当初は五年であったが、次第に短くなり、一年間に、永正七年(一五一〇)には二十五人、慶長元年(一五九四)には七十一人にも達している(住山記)。総持寺の場合は、住持期間がいくら短くなっても正住である。正住がこのような状態であったので、寺の管理運営は五院(峨山の弟子五人の塔頭)の住持たち(各院も一年交替の輪住)と近隣の寺院との合議によった。

 

 義介が去った永平寺は義演が住職となったが、五世に越前大野の宝慶寺から寂円派の義雲が入り、以降の永平寺は宝慶寺を拠点とした寂円派が住持となって維持していった。寂円派が中心となった永平寺は細々としたものであったが、十五世紀はじめころからは、能登総持寺を拠点に全国的発展を遂げた瑩山・峨山の門派やその外の門派などが運営を支援するようになってくる。これらの人々が、正住とは別に臨時的な住職として、入ってくるようになり、しだいに増加していった。当初は、世代数が与えられていたが、のちには、正住のみが数えられた。

 

 五山派の僧侶は各地の諸山・十刹と進み、京都や鎌倉の五山寺院の住持となっていった。このように格のある寺院の住持に上っていくことを出世(しゅっせ)(瑞(ずい)世(せ))と称した。建長・円覚・相国寺などの五山寺院は、将軍の「公帖(こうぢょう)」(辞令)をうけて、住持に就任したが、南禅寺と天竜寺は、それとともに、朝廷からの綸旨も受けて就任した。これに対して、五山派ではない大徳寺・妙心寺や永平寺・総持寺は朝廷からの綸旨(天皇の命を朝臣が受け賜って出される書状)を得て住職に就く(出世)する資格を獲得していった。

 

 永平寺はまず、応安度(一説に五年〈一三七二〉)に出世寺院であるという勅裁を受けたという。ただし、このことは、のちの天文八年(一五三九)の「綸旨」の中に、応安の勅裁は文明五年(一四七三)の火災によって焼失した旨の文言があることから知られるのみであり、若干の疑点が残る。

 ついで、永正四年(一五〇七)十一月に出世道場としての勅額を求め与えられている。このことは「宣胤卿記」という公家の日記に記されており、確かである。勅額は横に二字ずつ「本朝・曹洞・第一・道場」であった。

 

 なお、同日記には、四年後に総持寺が紫衣を着る資格の綸旨を求めたが、失敗したことが記されている。総持寺が紫衣を求めているということは、すでに出世道場としての資格は得ていたのではないかと思われる。

 

 その後、永平寺は先に記したように天文八年十月七日に「曹洞第一出世道場」の綸旨を受けているのである。これに対しては総持寺の一部に反発する動きもあったが、両寺とも「綸旨」を受けての出世道場であることを認め合うことで結着をみている。

 永平寺も総持寺も永正年間(一五〇一〜一五二一)ごろには、相当数の出世者(住持)が出ていたと考えられる。曹洞宗の僧侶は朝廷より住職辞令とも言うべき「綸旨」(受ける者が次第に増加していったと考えられる)を受けて住持の役を果たすと、「前永平寺」なり「前総持寺」なりの称号を得ることになる。

 

 永平寺では、年々増加していった住持(出世者)が納める金銭は、修造奉行と正住とで相談して、伽藍の修復費に充てていたことが知られるのである。総持寺においても同様であった。したがって、両寺の間には全国からの出世者をいかに多く獲得するかの競い合いが多少なりともあったようである。

 江戸期には、各地の寺院住職は永平寺なり総持寺から請状あるいは公文を受けて入寺し、京都に廻って宿所の道正庵(木下家)や伝奏役の公家の指南を受け、朝廷より綸旨を受けて帰国している。江戸中期には、一年で永平寺に三百人、総持寺に三百人の出世者があったから、朝廷からは六百人もの住持が綸旨を受けたことになる。寺に五両、朝廷に五両が納められたので、永平寺あるいは総持寺は一年に一五〇〇両、朝廷は三〇〇〇両もの金額を得ることになったのである。なお、僧侶はこの他に紫衣や禅師号などを得るには、別に朝廷に金銭を納めることになっていた。

 

 永平寺と総持寺は朝廷より綸旨を受けて住職となる出世道場になることで本山としての格を維持していったのである。またこのことが、曹洞宗に二大本山が存在した所以である。