RESEARCH(最新の研究)

廣瀬良弘編著『禅と地域社会』(吉川弘文館、2009年3月刊行予定)

禅宗史研究を概観すると、多くの分野で研究の進展がみられ、興味ある論考も多く見られた。とくに、五山制度・官寺制度、初期禅宗史、禅宗と対外交流、禅宗の地方展開、禅籍抄物・切紙・相伝書の研究等における進展には著しいものがある。このような研究状況の中で、本書では、能忍問題を含めた初期禅宗史、禅宗の地方展開、禅籍抄物・切紙・相伝書の研究の分野を深めることにした。そこで、「禅宗の展開と地域社会」を中心テーマとして研究を進めた。それは、前三者の分野を包括しうるものであり、相互の関連性を考えさせるものであり、研究を相互に深め合うという効果が期待できたからである。さらに、地域社会の中での諸宗教の展開とそれと禅宗との関連を考えていくことにした。そして、本書は『禅と地域社会』を書名とした。全体は四章からなる。

  第一章 初期の禅僧とその社会

  第二章 禅宗の展開とその周辺

  第三章 諸宗教の動向と地域社会

  第四章 在地寺社の運営と諸機能

 

 第一章は、初期禅宗史に関する問題を深めることにした。栄西が禅僧としてよりもむしろ密教僧として活躍し、兼修禅の禅風の持ち主であったことはよく知られていることであるが、高橋秀栄論文は、栄西を蘭渓道隆や無学祖元は「千光和尚」「千光法師」と称し、『元亨釈書』は「浄禅」の項でなく「伝智」の項に置き、虎関師錬は禅宗の始祖としては見ていなかったとする。『沙石集』は「建仁寺本願僧正」、『嵐渓拾葉集』は「葉上僧正」と称しており、晩年の栄西は東大寺大勧進職などで活躍し、僧正の位まで上ったとしている。栄西は持律持戒の律師、葉上流の密教僧、顕密二教の碩徳、僧正の位に昇った高僧であったと結論する。

 

 中尾良信論文は、道元とともに入宋した栄西の弟子である建仁寺明全に関する考察である。栄西関係の僧侶を見ると多くの入宋僧がいる。建仁寺にいた明全も東大寺発行の具足戒を持して入宋している。建仁寺には東大寺発行の具足戒を整えて入宋する形が成立しており、入宋に関する情報の蓄積があったと考えられるとする。道元・明全の入宋に関する史料の少ない中での重要な考察であり、初期禅宗史研究の一つの前進である。このことにより、道元が三ヶ月間、寧波で上陸できなかったことなどとも関連する指摘である。

 

 菅原昭英論文は、蘭渓道隆の「夢語り」に関する論考である。蘭渓は言葉の壁、社会の違いなどの障害を乗り越え、檀越の理解や寄進を仰ぐために「夢語り」を用いたとする。蘭渓は自らの期待を実現させるために、現実の外護者と土地神のイメージが重複する形を「夢語り」により作り出したとする。

 

 小松寿治論文も蘭渓に関する考察である。蘭渓の円爾宛の尺牘とほぼ同内容である覚心尼宛のものと比較検討することにより、両尺牘ともに信憑性に欠けるものがあるあるとし、また、建長寺建立は蘭渓・時頼に実現されたものであり、尺牘にあるような円爾の助力を仰ぐような状況は考えられないことを論証している。

 

 佐藤秀孝論文は、初期曹洞宗僧団の中での義介の入宋の主目的は道元の師である如浄の頂相を持ち帰ることにあったことを論証し、諸頂相の賛を検討した結果、義介が持ち帰った如浄の頂相は「智」という人物に与えられたものであり、永平寺に入り、義介が永平寺より大乗寺に出た時に持ち出された。その写本が宝慶寺に現在伝来する頂相であるとする。初期禅宗教団が成立してゆくにあたっての入宋の問題、日本に布教していくにあたっての努力とその実際、僧団内部における頂相とその相伝に関する考察である。いずれも、その禅僧たちの行動とその実際を明らかにし、日本に伝来し、布教され、僧団としての体裁を整えていく上での実際を明らかにした労作である。

 

 第二章は、中世における禅宗と地域社会に関する論考を中心に構成されている。林譲論文は、禅僧の花押に関する考察である。筆者は以前に総持寺開山の瑩山の花押を伝法関係のときに用いるA型(聖)と寺領寺地関係のときに用いるB型(俗)の二種類に分類しているが、本論文ではまず、宗峰妙超の花押を置文・法語・遺偈関係に用いるA型(中国型)と書状関係(候文)に用いるB型(日本型)に分類し、他の禅僧の花押と比較し、この分類方法に当てはまる禅僧とそうでない禅僧について考察を加えている。禅僧が二種類の花押を用いる場合の違いを明らかにしたことは、禅僧の史料解釈に新たな方法をもたらすものである。

 

 遠藤廣昭論文は、曹洞宗の輪住制に関するものである。輪住制とは門派結束のために住持を終身制にせず、各門派の人々が二年あるいは一年と一定期間を設けて交替で住持に就く方法である。越前龍沢寺の輪住制に越後の耕雲寺の傑堂派が加わらなかったのは、耕雲寺自体に寺領問題が起こり、輪住制に加わる機会を失したということを論証している。中心寺院の住持制度に各地の地域社会で起こった寺領問題が深く関わっていることを明らかにした。

 

 久保尚文論文は、越中新川郡の守護代椎名氏と越後守護代長尾氏、とくに上杉謙信の越中侵攻などとの関係を椎名氏が保護を加えた臨済宗長福寺と曹洞宗雲門寺・常泉寺とのかかわりの中で論じている。まず、下総国匝瑳郡の椎名氏と越中の椎名康胤との関係を述べて興味深い。また、越中椎名氏の惣領家の壊滅、庶子家の登用、惣領家の再興と推移するが、禅宗三か寺の檀越となることは、それぞれの段階の椎名氏の身の処し方と密接に関連するとする。椎名氏の変遷を丁寧に明らかにした点で貴重である。地域の歴史は寺院の史料も含めて丹念な分析により明らかになる。

 

 廣瀬良弘論文は、近江浅井氏の菩提寺である徳昌寺に伝来した授戒会帳の分析を通じて、そこに参加したのは、浅井氏の一族、女性たち、家臣団、舞々大夫たち、浅井氏と同盟関係にあったと考えられる近隣の美濃岩手氏は徳昌寺の末寺で自ら外護する禅幢寺での授戒会に参加し、一族、家臣の北村氏などが参加したことを明らかにした。筆者はかつて尾張知多半島の緒川乾坤院の授戒会帳の分析を試みたが、それについでの分析である。

 

 飯塚大展論文は、さきに述べた『永平寺史料全書』禅籍編の史料翻刻を担当し、多くの抄物や相伝書に解説を付した筆者の論文である。永平寺の寂円派の所伝とされる『三十四話』の本参に基づく多種の本参が相伝されてきたことを明らかにし、永平寺住持の英俊によりまとめられ光紹により書写されたという『切紙目録』と『参禅巻冊覚』の存在や高郁の記録した『伝授室中之物』や抄物・切紙の分析により、永平寺の江戸前期には多くの抄物や相伝書が所蔵されていたことを論証した。熊谷忠興論文は『宝慶由緒記』の記載が『義雲和尚語録』から抜粋されたものであったことを論証し、懐状と寂円、寂円と義雲との関係も再考する必要を説く。

 

 吉田道興論文は、諸道元伝の中に霊瑞・神異譚が何時あらわれたかを聖徳太子伝と比較し、釈尊伝とも比較しながら考察したものである。太子伝と道元伝に共通するところは誕生前後の逸話はすべて釈尊伝に依拠して述べられていることである。ただ、太子伝はすべてに釈尊伝が根底にあるのに対して、道元伝は誕生前後と少年期の逸話の一部に釈尊伝が反映されているが、後半生は独自の展開を遂げていることを明らかにしている。ただし、大梅山の「霊夢」は『正法眼蔵』(嗣書)にみえるものであり、作者の創作ではないとする。

 

 第三章は、中世における諸宗教と地域社会について考察した論文を掲載した。塚田博論文は、先達が檀那を掌握し、参詣させる伊豆走湯山・箱根山の二所参詣が鎌倉後期には行われていたことは推測されてはいたが、直接的な史料というと、従来は下屋文書の貞治元年(1362)の譲状が初見であった。しかし、筆者は写し文書ではあるが上州の下屋文書の文治五年や建久五年の文書を新たに用いることによって、貞治元年を大きく遡って行われていたことを明らかにしている。また、それにより、二所檀那の由緒が幕府草創期に求められることを明らかにし、檀那譲渡とともに、伝法も行われていたという新事実を明らかにしており、二所先達職に関する興味深い論考である。

 

 長塚孝論文は、「鎌倉御所」に関して史料を並べ直して、その所在地を検討している。「年中行事」(享徳三年〈1454〉)では、「公方屋敷」であるが、「方四町」(四町四方の広い敷地)の記載が問題である。「鎌倉大草紙」(康暦元〜文明十年〈1379〜1479〉)によれば、公方持氏の時代は「公方屋敷」に御所があり、「大蔵屋敷」と称されていたとする。鎌倉幕府滅亡後、鎌倉に入った足利千寿王(義詮)は大蔵の足利邸には入らず、に入り、中先代の乱前後の「二階堂御所」(永福寺)の存在、その後、尊氏が鎌倉の拠点と考えたのは若宮小路の代々の将軍家の旧跡であり、そこに御所を構えたようであること、その後、亀谷の御所、大蔵御所、宇都宮公方(宇都宮辻子)、桐谷の御所、西御門邸の「鎌倉殿御所」などの存在が確認できるとする。御所はこのように鎌倉の東側で六浦道に沿った場所に全時代置かれてきたのではなく、何回か移転し、御所に準ずる施設も存在したようである。しかし、「公方屋敷」だけが、クローズアップされてきたのは、最後の古河公方義氏が越後上杉氏の進攻を逃れ、鎌倉の「公方屋敷」に住した可能性が高いためであると推論する。今後、さまざまな研究に資する実証的研究である。

 

 栗原修論文は、起請文にみられる地域神の分析を試みる。地域社会の変質にともなって地域の神がどのように変わったか、その変化は人びとのどのような意識によるものかについて考察している。越後小泉荘内の領主たちの交わした起請文を素材とする荘園制的領域から戦国期特有の「領」への脱皮は領主制を支える「地域神」をも変化させたとする。戦国期当初は、荘の意識が残っており、本庄氏ら四氏は貴船明神・鷲巣権現・河内明神を領域一円の鎮守として、領主階級としての一体性を強調したのに対して、天文十年ころの戦国期半ば以降になると、鮎川氏と小川氏は鷲巣・河内、色部氏は貴船・若宮八幡・白山権現と異なる地域神を鎮守として灌頂するようになっていったとする。

 

 橋詰茂論文は、西国法華宗寺院の展開を讃岐本門寺の場合で見る。甲斐国からの西遷御家人と考えられる秋山家の外護を受けた讃岐本門寺は秋山家の隆盛とともに栄えた。日蓮宗は本門寺を中核としてその支配領域への早い段階での展開を遂げた。しかし、秋山氏の衰退と共に布教活動は見られなくなった。それは、当初は甲斐国からの住持であったが、途中から秋山氏出身の住持となったために、布教地域の広がりに限界が見られるようになっていった。戦国期になると秋山氏内部の分裂もあり、同氏と本門寺との関係も疎遠となっていった。秋山氏が香川氏に属することになると、本門寺もまた、香川氏の庇護下に組み込まれていくとする。

 

 黒田基樹論文は、関係史料の大半を寺社史料が占める年期延について考察を加えたものである。年期延は徳政と併記されることが多いことから、両者には差異があるということになる。しかも、戦国大名が延期延の発令の主体となりえたことも理解できるとする。また、公権力による年期延ばかりでなく、在地独自での年期延の存在も想定できるとする。延期延は領国統一的に返済年期の延期を認めるものであり、本銭分の返済のみで質物の請戻しを認めるものであり、徳政令に準ずるような領国統一的な年期延として認識することができるとする。徳政の前段階の事象として、すなわち、破棄にいたる前段階の事象として、把握することができるとする。祠堂銭などの寺院経営との関連からも重要な研究である。

 

 第四章は、中世後期から近世にかけての在地寺社の機能と運営に関して諸方から考察を加えるものである。佐藤孝之論文は、「山林」「駆込寺」に関する研究である。「山林」は古代では百姓や僧侶等の逃散の場としての山林であり、戦国期にはその意味もあったが、一方では、寺院への駆込みも意味し、その場合は謝罪・謹慎、処罰・制裁、救済・調停手段の意味をもち、それは、江戸期の機能へと連なるものであるとする。そして、江戸期では、専ら寺への駆込みを意味するようになったとし、これらを東海地域の史料で明らかにしている。また、古代から戦国期に至る「山林」についても考察し、「交山野」「入山」「沈淪」「散憐」「小屋籠」(村の城・根小屋に入る)など、本来は百姓等の逃散のみを意味したことをも論証している。アジール・駆込寺等に関する基礎的論考である。

 

 皆川義孝論文は、下野の長林寺という一寺院の殿堂再建の勧化と大般若経六百巻を揃えるための勧化活動に視点を置く論考である。前者では、檀家に対しては寄付額と戒名の位階とがリンクしていることを明らかにし、他寺の檀家に対しても勧化活動を展開していることを論証している。後者では、檀家・地域の寺院・他寺の檀家、江戸の門末寺院、隅田川沿いの町々の結縁者を募っていること。また、長林寺は十八世紀後半には相模最乗寺の道了尊を勧請している関係から最乗寺道了尊の江戸での出開帳の宿舎を勤める商人等に結縁を求め、寄付を求めており、一寺院の広範な勧化活動の様相を明らかにしている。このことは、江戸期の寺院が相互の勧化活動に協力しあっている証左でもあると見ることができよう。

 

 林謙介論文は、文化文政期に彦根藩士の岡見氏が旧本貫地の菩提寺の常陸国東林寺と移転した下野国長林寺に法華経と金銭を寄進していることに関する考察である。中世の在地領主が本貫地を離れた後も本貫地や旧臣との関わりをはじめ、菩提寺や開基寺などの旧本貫地の宗教施設との関わりを持ち続けていたことに関しては先行研究があるが本研究も当該研究を進展させるものである。徳川幕府は武士達の先祖への崇拝とアイデンテイテイ―の確立のためのこれらの動向にたいして規制を設けているほどである。何故にこれらの動向が生ずるにいたったかを考察する必要があろう。

 

 菅野洋介論文は、上野・相模・武蔵の村々をフィールドとして、村の禅宗寺院の存在、高野山寺院の活動、木曾御岳信仰などの諸関係を考察する。先祖供養を介した禅宗寺院と高野山のあり方、陰陽師と禅宗寺院の二点から、十八世紀以降の禅宗を中心とした在地寺院の性格について考察している。研究概観で述べたところであるが近年、地域社会の中での寺院を他宗教・他信仰などとの諸関係から総合的に考察する研究視覚が注目されるが、筆者もその一人である。禅宗寺院は檀家の先祖供養という点では高野山(清浄心院)と共存の立場をとり、陰陽師の活動に関しては、それを許可する立場にあり、在地の状況に応じた「対抗と共存」の関係が交差する「場」の中心的な存在であった。また、別の地域での禅宗寺院には木曾御岳関係の行者の堂も作られており、民間宗教者も寺院を拠点にして活動している事実があるとする。本論集の論文の中には禅宗を中心としながらも、地域社会との関係という視点から他の要素に配慮しての考察も少なくないが、菅野論文の視点は本論集を締めくくるに相応しい論考といえよう。