禅籍編 第4巻 発刊にあたって
日本国中が戦乱の巷と化した戦国時代、上杉謙信の画像が描かれ、越後の春日山林泉寺に納められている。帽子(もうす)、法衣に絡子(らくす)を掛け、左の腰に小刀と軍配をさし、扇子を右手に、太刀を左脇に置いている。画像の賛は謙信自身のものともされ、「分明紙上張公子、尽力、高聲喚不?(こたえず)、代云(・・)、収因結果、尽始尽終、対面無私、又云、噫」と代語形式である。謙信は同寺の益翁宗謙に禅を学び、達磨不識の話に通徹した人ではあるが、洞門の代語や本参の流行が、武将の画像の賛にまで影響を与えていたのである。また、下野(栃木県)大中寺七世の天嶺呑補の代語集に、「佐竹陣因」(天正八年カ)と題する代語がある。檀越の皆川氏が佐竹軍に向かっての出陣時に唱えた代語である。法戦の雰囲気を持つ代語には戦勝祈願の意味があったのであろう。ところで、語録の内容は宗旨関係(上堂・小参)と葬祭関係(引導法語)に分けることができる。道元禅師の『永平広録』以下、十四世紀半ばごろまでのものは、宗旨関係が圧倒的に多くを占め、十五世紀初めのものまでは葬祭関係がやや上回るもほぼ同量、十五世紀以降のものは、圧倒的に葬祭関係で占められている。語録の世界は宗旨関係から葬祭関係に移行した。しかし、一方では、了庵の『代語』が十四世紀末期に登場すると、それ以降、『大見代』・『南英語録』や『龍洲代』など多くの代語が、また、代語抄や再吟も多く生み出され、十五世紀半ば以降は、川僧慧済の『人天眼目抄』・『無門関抄』や大空玄虎の『碧眼録抄』なども抄出され、室内での本参・切紙の書写・伝授が盛んになっていった。葬祭(引導法語)と授戒会が行われて宗門が各地に展開した時期は、広義の抄物の世界が展開した時代でもあった。
抄物を広義に見て、漢文抄も加えるならば、古くは瑩山禅師に擬せられる「秘密正法眼蔵」、その著作とされる「報恩録」、義雲禅師の「永平頂王三昧記」、峨山禅師の「自得暉録抄」、「山雲海月図」、大智の「古今全抄」・「無尽集」がある。さらに、甲斐永昌院の一華文英の「竜谷山開山大和尚語」南英の弟子瑚海仲珊の「七夜話」なども知られている。そして、先述の川僧や大空の抄物などの聞書抄(仮名抄)が登場してくる。そして、十五世紀後半から十六世紀前半にかけて、多くの語録抄・聞書抄が抄出されたが、天正元年(一五七三)ごろを境に、本参・代語抄・本則抄(禅林類聚の本則・偈頌にもとづく抄)が現れて、前記の仮名抄に替わってくる。語録抄から本参への潮流である。また、戦国期から近世前半期にかけて、「曹洞三位」(自己・智不到・那辺などの三段階に分け、本参を配置)による公案工夫や夜参(結夏・結冬の初めの二十七夜、「曹洞三位」を行う)が盛んになったことが、本参流行に大きな影響を与えたといえる。
安藤嘉則氏の研究によると、代語・代語抄は、瑩山派の中でも、明峰派には見られず、峨山派でも通幻派と太源派によくみられるものである。ただし、この両派で曹洞宗寺院数の多くを占めたので、宗門の大きな潮流であったといえよう。とくに、通幻派下了庵派の在仲派・快庵派と通幻派下の天真派の代語集には禅林の行事が明記され、古則・代句の出典が明記されている。この了庵派の画一化は龍州文海(一四八〇〜一五五〇)の代語に始まるものであり、その師の圭庵の代語とは異なる。さらに、代語は年中行事を背景に古則や古語が提示され、代句は語録や公案集などを出典とする聯句・対句・偈頌という漢語の韻文が用いられることが多く、公案集としての『禅林類聚』に基づくものも多い。これに対して再吟における「説破(せっぱ)」では説話・雑談・和歌・民間伝承など卑近な例も引かれ、散文形式が増加する傾向にあった。
本参も公案に対しては代語形式で、代語と変わりない点が多いが、あくまで、室内での師資の相伝が基本である。門派や禅僧の公案修行体系を伝えるもので、初参に示す古則から伝授後に示す参まで透句・透参として配置されているものと、個々の参として授受され、師資の名が参ごとに明記され、まとめられて相伝される「独則参」とに分類できる。
永平寺とその周辺の広義の抄物についてみると、公案拈提に関するものでは前述したように義雲禅師の「永平頂王三昧記」があるが、同じ寂円派宝慶寺八世の喜瞬の「建仁栄西千光禅師伝法儀軌」(第一巻lワ二)(応永二十四年〈一四一七〉)の切紙がある。本文の最後に道元禅師から懐奘・義雲・曇希と寂円派に伝わるものであることが記されている。また、同書は、二三世の秀察まで伝えられている。受経作法を内容とする切紙であり、永平寺を支える寂円派にも切紙授受が早い段階から存在したことになる。さらに、永平寺一三世建綱(一四五七年入院)が書写した「正法眼蔵嗣書・縁思宗之抄」(第一巻h鼡縺jがある。このうち「縁思宗之抄」は、三物や門参類とは別に歴代住持の師資の間で授受されてきた「大陽明安十八般妙語」があるが、「縁思宗」は全く同じものであり、その抄物である。関東のような体系化はみられないが、寂円派・永平寺でも早い段階から本格的な抄物の書写が存在していたことになる。各門派で用いられた公案参得のための階梯を三段階にした「三位之(さんみの)透(とおり)」があるが、同書にも、その形をみることができる。
また、「正法眼蔵嗣書」の書写は他派でも行われたが、後世の「切紙としての嗣書」へと連なるものといえよう。永平寺十八世の祚棟が永禄三年(一五六〇)、祚玖に「仏祖正伝菩薩戒作法」を伝授しているが、その中に「宗門之一大事因縁儀軌」の文言が見え、切紙・本参などの広義の抄物の授受があったと見てよいのではないか。戦国時代末期の永平寺は一向一揆により伽藍を失い北庄(福井市)鎮徳寺に居を移していたが、慶長二年(一五九七)頃には天真派の門鶴が、上野鳳仙寺から二〇世として入院してきた。寂円派以外からの入寺であった。門鶴は慶長三年(一五九八)の夏に祚光・宗椿に「永平広録」の書写を命じている。道元禅師を顕彰したものと考えられる。一方、一九世の祚玖は、鎮徳寺において、慶長十一年(一六〇六)八月、祚天(のちに鎮徳寺二世・永平寺二二世)に「永平寺総目録」(第二巻s八)を伝授し、それは、元和九年(一六二三)に鎮徳寺三世の雪庵宝積によって書写されている。本書は「三位之(さんみの)透(とおり)」の参に基づいた寂円派の本格的な目録である。
そして、祚玖は慶長十一年十月、「十八種之剣」(第二巻s九)を門弟に示しており、上記目録にも記載されている。本書も鎮徳寺三世の雪庵が書写している。その序文のような部分には、道元禅師より寂円派に相伝されてきたものとして「三十四話之切紙」や本書が存在したことが記されているのである。寂円派の祚玖と祚天の間に他派の門鶴・宗奕が入ったことで、寂円派が大きく変化したと見るか、このような傾向は建綱の「縁思宗之抄」あたりからと見るかは見解の分かれるところであるが、一定の流れが有ったことは事実である。その流れの中で、関東を中心とする他派の動向に刺激を受けたことは事実であったろう。なお、門鶴についで入院した海巌宗奕も「本参十則」(第二巻nO〇)なる独則の本参を書写している。さらに、「(御州和尚)秘参十六則」(のちに二十九世御州所持)という独則の本参の書写がある。宗奕は近江の出身で佐々成政の俗弟とされ、尾張万松寺からの入院である。上記二書はのちの御州の「永平寺話頭総目録」(目録のみでなく内容もある)と拶語・代語などで公案解釈上に類似点がみられ、関係が深い。永平寺には元和四年に書写された「身心脱落切紙」(第一巻s四)がある。伝来は不明である。ただ寂円派の「永平寺総目録」には「心身脱落」「脱落身心」の則がある。
二二世の祚天を最後に寂円派の住持は姿を消す。二三世から二六世までの住持は関東寺院からの入院、二七世の高国英俊ははじめての関三刹(下総総寧寺)からの晋住であり、二八世門渚は越前武生出身であるが関東(安房延命寺)からの入院、二九世御州(武蔵竜穏寺)・三〇世智堂(総寧寺)以降は江戸期を通じて全て関三刹からの入院であった。 二七世高国英俊は「切紙目録」(第二巻nO九)を作成している。切紙名を単に配列したものである。もう一つの「切紙目録」(同解説)も切紙名を羅列したにすぎない。ただ、高国のものには「永平」「御開山」と冠されたものがみられ、道元禅師に仮託する傾向が見られる。また、「天童如浄和尚知識験弁点検大名目」(第一巻xZ三)という本参も書写しており、同書は多くの切紙の存在を前提にして書かれているものである。なお、同書は光紹によっても書写されている。さらに、幾つかの切紙も残している。「道元和尚嗣書切紙」(第一巻s〇)は、上記の建綱の切紙や草案本正法眼蔵嗣書によるのではなく、七十五巻本正法眼蔵の嗣書全体を把握した上での引用の感が強いという。「拈華微笑秘訣」(第二巻nO七)は二九世御州に伝付した切紙である。さらに、「合封折角切紙」(同三八)を記している。三物の授受が知られる。
二九世御州も寂円派からのものを意識していた。「永平寺話頭総目録」(第二巻nl二)は寂円派の祚玖から祚天に伝授された「永平寺総目録」をもとに書写した本参である。「三位」説にもとづいて公案話頭を配分し、体系化した本参である。他にも「仏家之大事」(第二巻bS4)の本参がある。これも道元禅師から懐奘・義介・義演・寂円と伝わるとする本参である。また、幾つかの切紙もある。御州より三〇世光紹智堂に相伝され、書写された切紙もある。「永平和尚一枚御密語」は道元禅師が説いたとされる坐禅に関する切紙である。「円相之参」(第一巻nO〇)は光紹の筆になる門参で、?仰宗(いぎょうしゅう)の秘訣とされるものであるが、道元禅師からの相伝であるとしており、禅師に仮託している。そして、三四世馥州高郁から三五世版橈晃全への住持委譲の折、貞享五年(一六八八)十月に伝授された「伝授室中之物」(第三巻h齪Z)の前半は相伝された抄物・本参・切紙等の相伝書の目録であり、後半は記録・文書の目録など交割帳(財産目録)的な役割を持つものである。
なお、同書には、「一州派門参」(第三巻h齊l)と思われる書名がみられ、当時すでに永平寺に存在したことが知られる。そして、この「伝授室中之物」は室中の「参禅箱」に納められていた。永平寺の抄物の世界は、宗奕の頃に始まり、関東からの歴住を経、さらに、英峻(慶安五年〈一六五二〉入院)・門渚・御州・智堂と代を経るなかで、寂円派からの相伝を踏まえ、道元禅師に仮託しうるものは仮託し、関東を中心に確立されてきたものを基本に、一応の体系化がなされたと言えよう。しかし、永平寺の公案話頭の時代も江戸宗学の確立の中で終わりを告げ、四二世円月光寂は延享二年(一七四五)四月、「永平寺話頭総目録」の表紙見返しに、中古の代語僧の述作であるという批判的文言を記している。
これまで、宗門と永平寺の中世から江戸時代前半にかけての広義の抄物の動向について見てきたが、本禅籍編第四巻にも、永平寺の堂奥に秘蔵されてきた貴重な禅籍を掲載している。元代に出版された元版『勅修百丈清規』(上巻のみ)と、日本の五山寺院が南北朝の頃に出版した五山版『勅修百丈清規』(下巻のみ)がある。両本ともに「永平常住」の文字から十五世光周の手沢本であろうか。『丹霞百則抄』(天正十二年〈一五八四〉書写)は、丹霞子淳が洞門僧に重点を置いて古則百則を集め頌を付した『丹霞淳禅師頌古百則』の聞書抄で、「ダゾ」「無マデヨ」等の口語体である。永平寺への経路は不明である。
江戸前期に本則抄・再吟の出版が見られたが、それ以前の成立であり、貴重である。また、『人天眼目川僧抄』の影響を受けた『人天眼目抄』(零本、中巻のみ)が存在する。語録抄(仮名抄)である。日光輪王寺本(常陸佐竹で東?が享禄五年〈一五三二〉に書写)では、「拙老ハ」が「岩ハ」となっている部分があり、「□岩」という人物が「川僧抄」を参照しながら、自らの代語も加えたものと考えられる。また、さらに、二七世の高国英峻が作成した木版血脈がある。道元禅師の四百回忌(承応元年〈一六五二〉)の折の授戒会での血脈の版木と考えられる。しかし、英峻の名が削られている。つまり、削った部分に後代の住持の名が書き込まれて、再利用されたようである。三〇世光紹智堂も木版血脈を作成している。
この版木も光紹の花押の部分に削り跡がみられる。また、生前に葬儀を行うという逆修法要の折に唱える逆修念誦文も作成しているが、この版木も禅師号の部分が削られている。これらも、再利用されたに相違ない。三三世山陰徹翁の木版血脈(断簡)も存在しており、江戸期の永平寺も受戒・授戒会を盛んに行っていたことが知られる。 この『永平寺史料全書』の編纂は道元禅師七百五十回大遠忌の記念事業として発足し、法要円成後も継続事業として、今日に至っている。この間、宮崎奕保不老閣猊下をはじめ御本山の関係諸老師にはご高配を賜ってきた。とくに、三巻目以降、宮崎猊下はもとより森嶺雄監院老師のご理解を頂戴し、今回、禅籍編としては最後の四巻目の発刊となった。極めて地道なものであり、形は小さなものであるが、遠忌記念としての意義には大きなものがあると確信する次第である。
平成十九年八月二十八日
駒澤大学文学部教授 永平寺史料全書編纂委員会委員幹事 廣瀬良弘